直江兼続(1/28)(1560年)

 直江兼続(なおえ かねつぐ)は、越後(えちご=現在の新潟県)の上杉家(うえすぎけ)の家臣(かしん=けらい)の子として生まれました。6歳のとき、5歳年上の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)に仕え、優れた武将に成長しました。そんな兼続を豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は「家臣にならないか」としきりにさそったが、兼続は「仕えるのは景勝だけ」ときっぱり断りました。秀吉の死後は、徳川家康(とくがわ いえやす)が従うように命令してきました。石田三成(いしだ みつなり)と仲がよかった兼続は、家康に正面から歯向かう挑戦状「直江状」をつきつけました。これを見た家康ははげしく怒り、兼続と景勝を攻めるために大坂城(おおさが じょう)を出発しました。これが関ケ原の戦い(せきがはら の たたかい)の引き金となりました。関ケ原の戦い後、景勝とともに会津(あいづ=現在の福島県)から米沢(よねざわ=現在の山形県)に移されたが、優れた政治を行いました。

ここでは、1560年、直江兼続(なおえ かねつぐ)が誕生した年を勉強します。

1560年(永禄(えいろく)三年)坂戸城(さかど じょう=現在の新潟県南魚沼市坂戸にあった城)主・長尾政景(ながお まさかげ)の家臣(かしん=けらい)樋口惣右衛門兼豊(ひぐち そうえもん かねとよ)と、信濃(しなの=現在の長野県)の武将・泉弥七郎重蔵(いずみや しちろう しげくら)の娘(むすめ)の嫡男(ちゃくなん=あとつぎ)として、坂戸城下で誕生しました。幼名(ようみょう)は与六と名付けられました。3月30日、上杉謙信(うえすぎ けんしん=31歳)は、はじめて越中(えっちゅう=現在の富山県)へ出陣(戦場へむかうこと)しました。5月、謙信は、居多神社(いた じんじゃ=現在の新潟県上越市五智(にいがたけん じょうえつし ごち)にある寺社)に制札(せいさつ=禁止事項などを書いて、みちばたにたてた札)を掲げました(あげました)。8月29日、謙信は、はじめて関東(かんとう=相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国・伊豆国・甲斐国)へ出陣しました。5月19日、桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)がありました。そして、この年、石田三成(いしだ みつなり)が誕生しました。上杉景勝(うえすぎ けいしょう=6歳)は、弘治(こうじ)元年(1555年)11月27日に誕生しました。

以上諸説あり。