
本多忠勝(ほんだ ただかつ,1548~1610)は、「徳川四天王(とくがわ してんのう)」のひとりです。徳川家康(とくがわ いえやす)より6歳年下で、少年のころから家康に仕えていました。戦いでの強さは、四天王の中でもずばぬけていて、合戦(かっせん)に57回も参加したのに、かすり傷ひとつ負いませんでした。忠勝は、長さ6メートル以上ある槍(やり)を使っていました。切れ味が鋭く(するどく)、槍の先にとまったトンボがまっぷたつになったことから「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれました。武田信玄(たけだ しんげん)が家康を攻めてきたとき、忠勝は、にげる徳川軍の、最後の部隊(ぶたい)の大将を努め、激しく追撃(ついげき=逃げる敵を追いかけて攻撃すること)してくる武田軍をなんとかふりきりました。これを見た武田軍の武将(ぶしょう=武士の大将)は、忠勝のことを「家康にはもったいない武将だ」とたたえたといいます。関ヶ原の戦いでは、合戦はもちろん、大名(だいみょう=諸国を支配し、家臣(かしん=けらい)に土地を与えてまとめて取りあつかった者)たちを家康の味方に引き入れることでも活躍(かつやく=めざましく活動すること)し、徳川軍の勝利に力をつくしました。江戸時代には、桑名藩(くわなはん=現在の三重県(みえけん))の初代藩主(しょだい はんしゅ)となりました。
ここでは、本多忠勝が生まれた1548年を勉強します。
1548年(天文(てんぶん)十七年)本多忠勝は、三河国(みかわのくに=現在の愛知県(あいちけん)東部)の豪族(ごうぞく=その地方に土着(どちゃく=先祖代々その土地に住んでいること)している住民の中で、大きな財産や勢力をもつ一族)・松平家(まつだいらけ)の家臣であった本多忠高(ほんだ ただたか)の長男として、三河国岡崎城(おかざきじょう=現在の愛知県岡崎市)の城下(じょうか=城下町)に生まれました。母は、松平氏の家臣・植村氏義(うえむら うじよし)の娘です。幼名(ようみょう=おさない時の名)は鍋之助(なべのすけ)でした。この年、主君(しゅくん=自分の仕えている殿様)である松平広忠(まつだいら ひろただ)の嫡男(ちゃくなん=正室(正式な妻)の生んだ男子のうち最も年長の子)・竹千代(たけちよ=のちの徳川家康)は7歳で、尾張国(おわりのくに=現在の愛知県西部)の大名・織田信秀(おだ のぶひで)のもとで人質(ひとじち)となっていました。
以上所説あり。