
明智光秀(あけち みつひで)は、斎藤道三(さいとう どうさん、1494~1556=美濃国(みののくに=現在の岐阜県(ぎふけん)南部 )の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))から朝倉義景(あさくら よしかげ、1533~1573=越前国(えちぜんのくに=現在の福井県(ふくいけん)北東部))の戦国大名。越前朝倉氏第11代当主)、足利義明(あしかが よしあき、~1538)と仕え、最後は織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。天下人(てんかびと= 国じゅうを支配するひと )に仕えました。光秀は合戦(かっせん=敵味方が出会って戦うこと)でも朝廷(天皇と貴族からなる中央政権)や寺院との話し合いも上手にこなしていた為、信長にとってなくてはならない存在となりました。1582年、信長の命で、中国地方を攻めている秀吉(ひでよし、1537~1598=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし))を助けに向かうと見せかけ、信長が泊まっていた本能寺(ほんのうじ=現在の京都府京都市中京区下本能寺前町(きょうとふ きょうとし なかぎょうく しもほんのうじまえちょう)にある寺院)を攻め、信長を自殺させました(本能寺の変)。光秀は天下統一に名乗りを上げました。しかし、秀吉が中国地方からかけつけ、山崎(やまざき=現在の京都府乙訓郡大山崎町(きょうとふ おとくにぐん おおやまざきちょう))の戦いで敗れ、戦場からにげるが、その途中、農民に竹やりでさされ、死んでしまいました。
ここでは、明智光秀生誕(1528年)から姉川の合戦(1570年)までを勉強します。
1528年(享禄(きょうろく)元年)八月、明智光秀は、美濃国石津郡(いしづぐん=現在の岐阜県大垣市(ぎふけん おおがきし)と海津市(かいづし)にまたがる地)に生まれました。
1555年(天文(てんぶん)二十四年)四月、同盟者(どうめいしゃ=互いに共通の目的を達成するために同一の行動をとることを約束した関係)であった斎藤道三が、息子義龍(よしたつ、1527~1561=美濃国の戦国大名。道三流斎藤氏の第2代当主)との争いにより、討ち死にしてしまいました。
1556年(弘治(こうじ)二年)十月、斎藤道三に属していた光秀、道三側の敗北を受けて、美濃から出奔(しゅっぽん=逃げだしてゆくえをくらますこと)しました。
1560年(永禄(えいろく)三年)光秀は、この年から二年間の諸国修行(しょこく しゅぎょう)に出ました。
1562年(永禄五年)この年、光秀は、越前で朝倉義景に仕えはじめました。
1566年(永禄九年)十月、光秀は、越前の朝倉義景のもとから美濃へ帰国しました。
1568年(永禄十一年)七月ごろ、光秀は、足利義昭(あしかが よしあき、1537~1597=室町幕府第15代将軍)の昵近衆(じっきんしゅう=上洛する(京都に入る)将軍またはその使者の接待に当たった者)を経(へ)て、信長に召し抱え(めしかかえ)られました。九月、織田信長、足利義昭を奉(ほう=仕える)じて入洛(じゅらく=京都に入る)しました。十月、信長、足利義昭を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府の主宰者(しゅさいしゃ)の職名)に叙任(じょにん=位階をさずけ、官職に任ずること)しました。
1569年(永禄十二年)正月、三好三人衆(みよし さんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通(みよし ながやす・みよし そうい・いわなり ともみち))が、京都六条(きょうと ろくじょう)の本圀寺(ほんこくじ=現在の京都府京都市山科区(きょうとふ きょうとし やましなく)にある寺院)で足利義昭を襲(おそ)いました。光秀は後詰(ごづめ=救援(きゅうえん=危険におちっている人を助けること)行動)として三人衆を撃退(げきたい=うちはらうこと)しました。四月、信長が将軍の居所(きょしょ=いどころ)として二条城(にじょうじょう=現在の京都府京都市上京区武衛陣町(かみぎょうく ぶえいじんちょう)・五町目町(ごちょうめちょう)一帯にあった城)を築城(ちくじょう=城をきずくこと)しました。
1570年(元亀(げんき)元年)五月、越前進行中(しんこうちゅう)の信長、浅井長政(あざい ながまさ、=北近江(きたおうみ=現在の滋賀県長浜市(しがけん ながはまし)・米原市(まいばらし)・彦根市鳥居本(ひこねし とりいもと)地区)の戦国大名。浅井氏3代目当主)の離反(りはん=従っていいた者がそむきはなれること)に合い、窮地(きゅうち=追いつめられる)に陥り(おちいり=攻め落とされる)ました。光秀は、木下藤吉郎(きのした とうきちろう=のちの秀吉)らと共に殿(しんがり=後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊)を務め、信長の窮地を救いました(金ヶ崎退き口(かねがさき しりぞき ぐち))。六月、家康(いえやす、=1543~1616)と共に浅井・朝倉(あざい・あさくら)軍と戦い、激戦の末、勝利しました(姉川(あねかわ)の合戦))。
以上諸説あり。