斎藤道三(1/10)(1494年)

 応仁の乱(おうにんのらん※1)後、京都は荒れ果てていました。この荒れ果てた世の中を泰平(たいへい=世の中がよく治まって平和なこと)にしたいと志す北面の武士(ほくめんのぶし※2)の息子・峰丸(みねまる=道三の父)という男児がいました。しかし、父・松波基宗(まつなみ もとむね=道三の祖父)はこの乱世(らんせ=秩序(ちつじょ=その社会・集団などが、望ましい状態を保つための順序やきまり)が乱れて戦乱や騒動などの絶えない世の中)、悪事を働くものを一人二人切ったところで変わるものではないと思い、峰丸を武士にさせるより出家(しゅっけ=世俗(せぞく=世の中)の生活を捨て、僧(そう=お坊さん)となって仏道(ぶつどう=仏の悟りである無上菩提(むじょうぼだい=最上のさとり)のこと)を修行すること)させるほうが幸せと思い、京都の日蓮宗(にちれんしゅう※3)妙覚寺(みょうかくじ=現在の京都府京都市上京区(かみきょうく)にある寺院)・南陽坊(なんようぼう※4)に預け出家させました。峰丸は法連坊(ほうれんぼう)と名乗り、「日蓮聖人(にちれんしょうにん※5)は法華経の教えがあまねく(あまねく=ひろく)広まれば平和な世の中がおとずれる、乱世をたいらげるものは必ずしも武ではない」という教えを信じ、修行をはじめました。月日は流れ、乱世は続いていました。法連坊は仏法(ぶっぽう=仏教)が自分の望む道なのか確かめるため、南陽坊の許しを得て百日間の荒行を行いました。その結果、仏法は無力と悟(さと)り、還俗(げんぞく=僧(そう=お坊さん)が僧籍(そうせき=僧として認められた身分)を離れて、俗人(ぞくにん=一般の人)にかえること)し松波庄五郎(まつなみ しょうごろう)と名乗りました。そして「乱世を平らげるための武力は買わねばならない」と思い、まず資金を稼ぐため、油売りの弟子になり3年で自分の店を持つまでになりました。稼いだ資金と美濃の常在寺(じょうざいじ=現在の岐阜県岐阜市にある寺院)・日運上人(にちうんしょうにん=かつての南陽坊)の伝手(つて)で美濃守護(しゅご=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人)・土岐成頼(とき しげより※6)の守護代(しゅごだい=守護の下に置かれた役職)・斎藤家・家宰(かさい=家の仕事を、その家長にかわって取りしきる人)・長井秀弘(ながい ひでひろ※7)に会い、美濃の商いを許していただきました。明応三年(1494年)、庄五郎に子が出来、自分の幼名と同じ「峰丸」と名付けられました。そして、この子がのちの斎藤道三です。ここから、どのように父の「世の中を泰平にしたいという志」を継ぎ、どのように美濃を手に入れ、「美濃のマムシ」と恐れられ、織田信長(おだ のぶなが※8)と娘・帰蝶(きちょう=濃姫(のうひめ))の結婚で織田と和睦(わぼく=争いをやめて仲直り)し、信長と会い、息子・義龍(よしたつ※9)に斎藤家を継がせ、最期には息子・義龍と戦うことになり、敗れ亡くなってしまい、父の志が叶えられなくなった生涯を、年代を追って勉強していきます。

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※1 おうにんのらん=細川勝元(ほそかわ かつもと※1-1)率いる東軍と山名持豊(やまな もちとよ※1-2)率いる西軍に分かれて、11年に渡り、京都を主戦場として戦った大乱
※1-1 ほそかわ かつもと、1430~1473=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・守護大名(しゅご だいみょう※1-1-1)。第16、18、21代室町幕府(むろまち ばくふ※1-1-2)管領(かんりょう※1-1-3)。土佐(とさ=現在の高知県(こうちけん))・讃岐(さぬき=香川県(かがわけん))・丹波(たんば=現在の京都府(きょうとふ)中部、兵庫県(ひょうごけん)北東部、大阪府(おおさかう)北部)・摂津(せっつ=現在の大阪府北中部の大半、兵庫県(ひょうごけん)南東部)・伊予(いよ=現在の愛媛県(えひめけん))守護。第11代細川京兆家(ほそかわけいきょうけ=細川氏の宗家(そうけ=おおもととなる家)・嫡流(ちゃくりゅう=正統(せいとう)の血筋(ちすじ)))当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。父は第14代室町幕府管領の細川持之(もちゆき、1400~1442)。細川政元(まさもと、1466~1507)の父。応仁の乱の東軍総大将
※1-1-1 しゅご だいみょう=室町時代(むろまち じだい※1-1-1-1)の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人
※1-1-1-1 むろまち じだい=足利(あしかが)将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん※1-1-1-1-1))家によって統治されて(とうちされて=まとめおさめられて)いた時代。
※1-1-1-1-1 せいいたいしょうぐん=武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号
※1-1-2 むろまち ばくふ=室町時代における日本の武家政権(ぶけせいけん※1-1-2-1)。足利尊氏(あしかが たかうじ、1305~1358)が京都で創始した。
※1-1-2-1 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権
※1-1-3 かんりょう=官職(かんしょく※1-1-3-1)についている人
※1-1-3-1 かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務(しょくむ=役目)の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方
※1-2 やまな もちとよ、1404~1473=山名宗全(やまな そうぜん)。武将・守護大名。但馬(たんば=現在の京都府(きょうとふ)中部、兵庫県(ひょうごけん)北東部、大阪府(おおさかふ)北部)・備後(びんご=現在の広島県(ひろしまけん)東半分)・安芸(あき=現在の広島県西部)・伊賀(いが=現在の三重県(みえけん)西部(伊賀市・名張市(なばりし)))・播磨(はりま=兵庫県南西部)守護。応仁の乱の西軍の総大将

※2 ほくめんのぶし=平安時代(へいあん じだい※2-1)、院の御所(いんのごしょ=上皇(じょうこう=天皇が位を退(しりぞ)いてからの尊称(そんしょう=尊敬の気持ちをこめて呼ぶ呼称(こしょう=呼び名)))の居所(きょしょ=いるところ))の北面 (きたおもて) にいて,院中(いんちゅう=上皇の御所(ごしょ=住むところ)の中)を警固(けいご=非常の事態に備えて守り固めること)した武士(ぶし=さむらい)
※2-1 へいあん じだい=794年(延暦(えんりゃく)13年)に桓武天皇(かんむてんのう=第50代天皇)が平安京(へいあんきょう=現在の京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府(かまくら ばくふ※2-1-1)が成立するまでの約390年間を指す
※2-1-1 かまくら ばくふ=鎌倉時代(かまくら じだい=1192年頃~1333年で幕府が鎌倉(かまくら=現在の神奈川県鎌倉市(かながわけん かまくらし))に置かれていた時代)の日本の武家政権(ぶけせいけん※2-1-1-1)。征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)・源頼朝(みなもとのよりとも※2-1-1-2)が創始し、北条時政(ほうじょう ときまさ※2-1-1-3)・北条義時(ほうじょう よしとき※2-1-1-4)らを中心とした坂東武士(ばんどう ぶし※2-1-1-5)が鎌倉に設立した幕府
※2-1-1-1 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)
※2-1-1-2 みなもとのよりとも、1147~1199=平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家(せいじか=職業として政治(せいじ=国を治める活動)に携(たずさ)わっているひと)。鎌倉幕府を開いた初代征夷大将軍
※2-1-1-3 ほうじょう ときまさ、1138~1215=平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。源頼朝の正室(せいしつ=身分ある人の正式な妻)・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権(しっけん= 鎌倉幕府の政所(まんどころ)の長官。将軍を補佐し政務を統轄した最高の職)
※2-1-1-4 ほうじょう よしとき、1163~1224=平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の第2代執権。時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗(とくそう=北条氏の嫡流(ちゃくりゅう=正統(せいとう)の血筋(ちすじ)))家2代目当主(とうしゅ=その家の現在の主人)

※3 にちれんしゅう=日蓮(にちれん、1222~1282=鎌倉時代の仏教の僧)を祖(そ=ある物事を始めた人)とする、法華経(ほけきょう=大乗仏教(だいじょうぶっきょう=ユーラシア大陸(ゆーらしあたいりく=ヨーロッパとアジアを合わせた領域)の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教(ぶっきょう※3-1)の一派)の代表的な経典(きょうてん=釈迦が説いた教えを記録した聖典(せいてん=宗教での教え・きまりを説いた書物)))信仰(しんこう=ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること)による仏教の宗派(しゅうは=同一宗教の中での分派)
※3-1 ぶっきょう=釈迦(しゃか※3-1-1)とする宗教(しゅうきょう※3-1-2)
※3-1-1 しゃか、紀元前5世紀前後=ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ。北インド(きたいんど=インドの北半部)の人物。仏教の開祖(かいそ=ある宗教を新たに開始した人)
※3-1-2 しゅうきょう=超自然的な力や存在に対する信仰(しんこう=ある宗教を信じて、その教えを自分のよりどころとすること)と,それに伴う儀礼(ぎらい=礼儀作法(れいぎさほう)を記した書)や制度をいう

※4 なんようぼう、1484~?=妙覚寺(みょうかくじ=現在の京都府京都市上京区(かみきょうく)にある寺院)の僧侶。のちの常在寺(じょうざいじ=現在の岐阜県岐阜市梶川町(ぎふけん ぎふし かじかわちょう)にある寺院)住職・日運上人(にちうんしょうにん)。美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)守護代・斎藤利藤(さいとう としふじ、~1498)の末子

※5 にちれんしょうにん、1222~1282=鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教(かまくら ぶっきょう=平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した(こうきした=勢いが盛んになった)日本仏教の変革の(へんかく=変えて新しいものにする)動き)のひとつである日蓮宗の宗祖(しゅうそ=宗教を開いた人)

※6 とき しげより、1442~1497=武将、守護大名。美濃守護。土岐氏第11代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)

※7 ながい ひでひろ、~1497=武将。長井長弘(ながい ながひろ※7-1)の父
※7-1 ながい ながひろ、~1533=武将。美濃小守護代(こしゅごだい※7-1-1)
※7-1-1 こしゅごだい=守護代(しゅごだい=守護の下に置かれた役職)の家人(けにん=けらい)でその職務を助ける役職
※7-1-1-1 むろまち じだい=足利(あしかが)将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん※7-1-1-1-1))家によって統治されて(とうちされて=まとめおさめられて)いた時代。
※7-1-1-1-1 せいいたいしょうぐん=武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。

※8 おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主。武将・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(信長・豊臣秀吉(とよとみ※8-1)・徳川家康(とくがわ いえやす※8-2)))の一人
※8-1 とよとみ ひでよし、1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人
※8-2 とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主。のちの天下人。江戸幕府(えどばくふ※8-2-1)の初代征夷大将軍。三英傑の一人
※8-2-1 えど ばくふ=家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権

※9 さいとう よしたつ、1527~1561=武将。美濃国の戦国大名。道三流斎藤氏の第2代当主。道三の長男。母は側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)・深芳野(みよしの)。幼名・豊太丸(とよたまる)

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ここでは、斎藤道三が生まれた1494年を勉強します。

1494年(明応(めいおう)三年)この年、美濃国で道三が生まれました。父は松波庄五郎で、幼名は父と同じ「峰丸(みねまる)」としました。

以上所説あり。