
徳川家康(とくがわ いえやす)は、三河(みかわ=現在の愛知県)の岡崎城(おかざき じょう=現在の愛知県岡崎市康生町にある城)城主(城のあるじ)の松平広忠(とくがわ ひろただ)の嫡男(ちゃくなん=長男)として生まれました。広忠は、駿河(するが=現在の静岡県)の今川氏(いまがわ し)、尾張(おわり=現在の愛知県)の織田氏(おだ し)にはさまれ、弱い立場でした。そのため家康は、広忠が今川氏(いまがわ し)に従うあかしとして、6歳で人質に出されましたが、家臣の裏切りによって、織田氏と今川氏との間で人質を交換することになり、家康は今川氏の人質となりました。今川家(いまがわ け)では、家庭教師に学問をおそわるなど大じにされる一方、「三河のやっかい者」と悪口も言われました。
19歳のとき、今川義元(いまがわ よしもと)が桶狭間(おけはざま=現在の愛知県)で織田信長(おだ のぶなが)にうたれ、家康は自由の身となり、信長はさっそく家康と協力関係(清州同盟(きよす どうめい))を結びました。実際は、信長に従う従属関係で信長が死ぬまで、約20年間も続きました。
信長が本能寺(ほんのうじ=現在の京都府京都市中京区下本能寺前町にある寺院)で倒されたとき、家康は東海地方を中心に甲斐(かい=現在の山梨県)や信濃(しなの=現在の長野県)までを治める大名にまで成長していました。信長のあとを継いだ豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が天下統一(てんか とういつ)に名乗りを上げると、これに不満をもった信長の次男信雄(のぶかつ)が、家康を頼ってきました。「秀吉を倒せば天下を取れる」と考えた家康は信雄に協力し、小牧・長久手(こまき・ながくて)で秀吉と戦いました。家康は豊臣軍に勝っていましたが、途中で信雄が勝手に秀吉と仲直りしてしまい、家康は、しかたなく秀吉と仲直りすることとなり、以降は秀吉に従うことにしました。
1590年に秀吉が天下統一を果たすと、家康は関東地方を治めるよう命じられました。都である京都からは遠ざけられましたが、広い領地を治めることで力を養(やしな)いました。
その後、病気になった秀吉は、家康にまだ6歳だった息子の秀頼(ひでより)を助けてくれるように頼んで死にました。このとき57歳になっていた家康は、ようやく天下取りに動き始めました。石田三成(いしだ みつなり)に反発する大名たちを自分の仲間に引き込み、大きな勢力をつくっていきました。そして1600年の関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)で三成が中心となった西軍に勝利すると、3年後に家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=将軍)となり、江戸(現在の東京都)に幕府を開きました。
その2年後、息子の秀忠(ひでただ)に将軍職をゆずったが、家康は、豊臣家(とよとみ け)が存在していることが心配でした。1614年、家康は豊臣秀頼に戦いをしかけると、翌年の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)で豊臣家をほろぼしました。こうして、すべての敵を倒した後、家康は病死しました。
そんな徳川家康を、ここでは、生誕(1542年)から松平家当主(まつだいら け とうしゅ)として、駿河国駿府(するがのくに すんぷ=現在の現在の静岡県静岡市葵区)に移るまで(1555年)を勉強します。
1542年(天文(てんぶん)十一年)12月26日、三河岡崎城(みかわ おかざき じょう=現在の愛知県岡崎市康生町にある城)にて誕生しました。幼名は竹千代(たけちよ)と名付けられました。
1547年(天文十六年)9月上旬、織田信秀(おだ のぶひで)の攻勢(こうせい)に松平広忠(まつだいら ひろただ=竹千代の父)が降伏に追い込まれ、この際に、織田氏(おだ し)へ人質として竹千代を差し出しました。
1549年(天文十八年)3月6日、父広忠が死去しました。11月上旬、駿河今川氏(するが いまがわ し)が駿河安城城(するが あんじょう じょう=現在の愛知県安城市安城町にあった城)を攻略しました。戦後、竹千代は、織田氏から今川氏(いまがわ し)に引き渡され、今川氏従属下(今川氏に依存)の松平家当主(まつだいら け とうしゅ)として、駿河国駿府(するがのくに すんぷ=現在の現在の静岡県静岡市葵区)に移りました。
以上所説あり。