
島津義弘(しまづ よしひろ)は、薩摩(さつま=現在の鹿児島県)の戦国大名・島津貴久(しまづ たかひさ)の次男です。兄・義久(よしひさ)をたすけながら、九州全土を支配しようとしていました。1587年、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が、九州へ攻めてきました。義弘(よしひろ)は先頭に立って戦ったが、義久(よしひさ)が降伏したため、義弘もいさぎよく秀吉に従いました。以後、義弘は秀吉のために働き、朝鮮出兵では大活躍しました。関ヶ原の戦いでは、徳川軍(とくがわ ぐん=東軍)への参加を断られたため、しかたなく石田軍(いしだ ぐん=西軍)に加わりました。しがし、西軍はたちまち総崩れになりました。「もはや、これまで」、義弘が切腹しようとしたとき、おいの島津豊久(しまず とよひさ)が叫びました。「薩摩では殿のお帰りを待っています!」、ふるいたった義弘は東軍の中央に突撃して戦場を脱出しました。追ってお振り切り、みごとに帰国しました。家康(いえやす)は義弘の力を恐れ(おそれ)、島津氏の領地を減らしませんでした。
ここでは、島津義弘、誕生(1535年)から、父・貴久(たかひさ)の居城(きょじょう=領主が日常住んでいる城)を薩摩国(さつまのくに=現在の鹿児島県)の内城(うちじょう=鹿児島県鹿児島市大竜町にあった城)に移った年(1550年)までを勉強します。
1535年(天文(てんぶん)四年)7月23日、薩摩国(さつまのくに=現在の鹿児島県西部)の伊作城(いざく じょう=亀丸城(かめまる じょう))で島津本宗家十五代当主(しまづ ほんそうけ じゅうだい とうしゅ)・貴久(たかひさ)の次男として生まれました。母は入来院重聡(いりきいん しげさと)の女(むすめ)・雪窓夫人(せっそう じん)で、兄は義久です。
1537年(天文六年)7月、義弘の弟・歳久(としひさ)が生まれました。
1545年(天文十四年)義弘の父・貴久(たかひさ)、居城を薩摩国伊集院(さつまのくに いじゅういん=現在の鹿児島県日置市伊集院町大田)の壱宇治城(いちうじ じょう)に移しました。
1546年(天文十五年)義弘、元服(げんぷく=男子が成人に達したことを示すための儀式)し、初名(しょめい=はじめの名)を忠平(ただひら)と称(しょう=よびな)しました。
1547年(天文十六年)義弘の弟・家久(いえひさ)が生まれました。
1550年(天文十九年)12月、父・貴久、居城(きょじょう=領主が日常住んでいる城)を薩摩国(さつまのくに)の内城(うちじょう=鹿児島県鹿児島市大竜町にあった城)に移しました。
以上諸説あり。