北条氏政(1/20)(1539年~1542年)

 北条氏政(ほうじょう うじまさ)は、小田原城(おだわら じょう)を拠点(きょてん=)に勢力(せいりょく=)を広げて、関東地方(かんとう ちほう=現在の関東に静岡県伊東半島と山梨県)全体を支配していました。しかし、北条家をついだときには、北に上杉氏(うえすぎ し)、北西には武田氏(たけだ し)ら、強大な戦国大名(せんごく だいみょう)が関東地方をねらっていました。氏政は、武田氏と結(むす)んで、上杉氏から関東地方を守りました。その後は、今川氏(いまがわ し)と手を結んで武田氏を攻めるなどして、領地をこれまでの北条氏の中で最大にまで広げました。ところが、氏政をおそれた豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が自分に従うように命令してきましたが、氏政はこれをはねつけました。これにより、1590年に、秀吉が小田原城(おだわら じょう)を攻めてきました。小田原城にこもった氏政は、自信をもって戦いましたが、14万人の大軍の前に力つき、降伏(こうふく=こうさん)しました。氏政は切腹(せっぷく=自分の腹部を短刀で切りさいて死ぬこと)し、約100年続いた北条氏はほろびました。

ここでは、北条氏政、誕生(1539年)から、弟(氏康の三男)・氏照(うじてる)が生まれる年(1542年)までを勉強します。

1539年(天文(てんぶん)八年)北条氏康(ほうじょう うじやす)の次男として生まれました。母は今川氏親(いまがわ うじちか)の娘・瑞渓院殿(ずいけいいんでん)。

1540年(天文九年)11月、北条氏綱(ほうじょう うじつな=氏康の父)、鎌倉鶴岡八幡宮(かまくら つるがおかはちまんぐう)上宮正殿(じょうぐう しょうでん=一つの神社に複数の建物があり、その上方または奥、中心となる建物)で遷宮(せんぐう=神社の本殿の造営または修理の際に、神体を従前とは異なる本殿に移すこと)が行われました。同月、氏綱の娘・芳春院殿(ほうしゅんいん)が、古河公方(こがくぼう=現在の茨城県古河市(いばらきけん こがし)を本拠とした関東足利氏)の足利晴氏(あしかが はるうじ)にとつぎました。

1541年(天文十年)7月、北条氏綱が死去し、氏康が家督(かとく=あととり)を継(つ)ぎました。

1542年(天文十一年)5月、氏康の弟の玉縄城(たまなわじょう=現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域(かながわけん かまくらし たまなわちいき)にあった城)主・北条為昌(ほうじょう ためまさ)が死去し、氏康の義弟・綱成(つななり)が玉縄城主になりました。この年、氏康三男・氏照(うじてる)が生まれました。

以上諸説あり。