佐々成政(1/17)(1536年~1549年)

 安土桃山時代(あづちももやま じだい)の武将(ぶしょう=武士の大将)。尾張(おわり=現在の愛知県西部)の人。織田信長(おだ のぶなが)に仕えて越中富山(えっちゅう とやま=現在の富山県)を領しました。小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)では豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と戦って敗れ、降伏(こうふく=戦いに負けたことを認めて、相手に従うこと)しました。秀吉の九州平定(きゅうしゅうへいてい=秀吉と島津氏など、九州諸将との戦い)後、肥後(ひご=現在の熊本県(くまもとけん))に封じ(ふうじ=おさえつけて活動できないようにすること)られたが、一揆(いっき=幕府などに反抗し、地侍・農民・信徒らが起こした暴動)を鎮圧(ちんあつ=力をもっておさえつけしずめること)できず、責めを問われて切腹しました。

ここでは、1536年~1549年に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1536年(天文(てんぶん)五年)1月、尾張国比良城(ひら じょう=名古屋市西区比良(なごやし ひら)にあった城)主・佐々成宗(さっさ なりむね)の子として誕生しました。母は比良早川主水の娘でした。内蔵助(くらのすけ)、陸奥守(むつのかみ=現在の青森県、秋田県北東部、岩手県、宮城県、福島県)、侍従(じじゅう=君主のおそばに仕えるこ)となり、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)より羽柴(はしば)の姓(せい=みょうじ)を授けられました。(天文三年、織田信長(おだ のぶなが)が誕生し、天文六年に豊臣秀吉が誕生しました。)

1538年(天文七年)12月、成政のライバル前田利家(まえだ としいえ)、尾張国(おわりのくに=現在の愛知県西部)荒子城((あらこじょう=現在の愛知県名古屋市荒子)にあった城)主・前田利昌(まえだ としまさ=後の利晴)の四男として誕生しました。

1539年(天文八年)8月、成政の長兄(ちょうけい=一番上の兄)・政次(まさつぐ)、織田信長の父・信秀(のぶひで)に仕えました。

1542年(天文十一年)8月、織田信秀と今川義元(いまがわ よしもと)が三河小豆坂()で戦いました。長兄政次、次兄成経(孫介)が活躍しました。小豆坂の七本鑓といわれました。(当年、徳川家康(とくがわ いえやす)が誕生しました)。

1549年(天文十八年)3月、信長の父・信秀が病死しました。信長、家督(かとく=あとつぎ)を相続しました。

以上諸説あり。