伊達政宗(1/6)(1567年~1577年)

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「独眼竜(どくがんりゅう)」と呼ばれた伊達政宗(だて まさむね)は、子供のころに思い病気にかかり、右目の視力を失ってしまいました。そのため、母から愛されませんでした。しかし、父・伊達輝宗(だて てるむね)は、「この子は知恵(ちえ)と勇気(ゆうき)をもっている」と、かわいがっていました。1584年、18歳で伊達家を継いだ政宗は、周囲の大名に戦いをしかけ、領地を広げ始ました。しかし、翌年、輝宗が二本松城(にほんまつ じょう=現在の福島県二本松市郭内にある城)の城主・畠山義継(はたけやま よしつぐ)の人質(ひとじち)に取られ、連れ去られるという事件が起きました。このとき政宗は輝宗もろとも義継を殺し、さらに佐竹義重(さたけ よししげ)らを中心とする連合軍(れんごうぐん)に戦いをいどみましたが、大敗しました(人取橋(ひととり)の戦い)。大敗にもめげず、政宗は戦いを続け、24歳のとき東北地方の3分の1を支配する大名に成長しました。そのころ、西日本では豊臣秀吉が天下統一まであと一歩のところまで迫っていました。秀吉は大軍を率いて、関東地方を支配する北条氏の小田原城(おだわら じょう=現在の神奈川県小田原市にあった城)へ攻撃をはじめました。政宗のもとには、秀吉から「豊臣軍に参加せよ」という命令が届けられました。小田原城の戦いに参加することは、秀吉に従うという意味だ。政宗はさんざん迷ったが、秀吉と戦っても勝ち目はないと判断し、小田原へ向かうこと決意しました。
政宗は小田原へ出発しようとした直前(ちょくぜん)伊達家を政宗の弟に継がせたい母親から毒殺されそうになりました。一命を取りとめた政宗は、混乱の原因となった弟を殺害し、伊達家内の争いをを治めたが、小田原への到着が大きく遅れてしました。怒った秀吉は政宗を箱根(はこね=現在の神奈川県足柄下郡箱根町)の山中に閉じ込め、切腹(せっぷく)をさせるつもりでした。そこへやってきた前田利家(まえだ としいえ)に対し、政宗は「千利休殿(せんのりきゅう)に茶を習いたい」と言いました。利休は「茶の湯(茶道)」を完成させた人物で、秀吉に大切にされていました。これを聞いた秀吉は、「政宗も茶に興味があるのか」と、政宗と会う気になりました。そこで、政宗は、まげをばっさり切り落とし、白装束(しろしょうぞく=死者が着る白い着物)を着て、秀吉の前に現れました。死を覚悟(かくご)した大胆(だいたん)な姿に、思わず秀吉は政宗を許しました。政宗は朝鮮出兵(ちょうせん しゅっぺい)にも参加しました。出発のとき、京都の町を行進する伊達軍の服装はみな派手で、目立つものばかりでした。人々は、「さすが伊達者!」と声をあげ、おしゃれな男性を意味する「伊達者」の語源になったといいました。秀吉の死後、政宗は徳永家康(とくなが いえやす)に味方し、関ヶ原の戦いのときは、徳川軍(東軍)として、東北地方で直江兼続(なおえ かねつぐ)と戦いました(長谷堂城の戦い(はせどうじょう の たたかい))。
関ヶ原の戦い後、政宗は仙台藩(現在の宮城県)の初代藩主(しょだいはんしゅ)となりました。1613年、政宗は家臣の支倉恒長(はせくら つねなが)をメキシコやスペイン、ローマなどへ送り、貿易(ぼうえき=ある国と別の国との間で行なわれる商品の売買のこと)できる関係を結ぼうとしました。しかし、江戸幕府がキリスト教を禁止したため、政宗は運河(うんが=船舶の航行のために人工的に開削された水路)をつくったり、新しい田を開発したりして、仙台藩の発展(はってん)に力をつくしました。

ここでは、伊達政宗、誕生(1567年)から、祖父・晴宗(はるむね)が亡くなる(1577年)までを勉強します。

1567年(永禄(えいろく)十年)伊達政宗、米沢城(よねざわ じょう=現在の山形県米沢市丸の内にあった城)主・輝宗(てるむね)の長男として生まれました。母は山形城(やまがた じょう=山形県山形市霞城町にあった城)主・最上義守(もがみ よしもり)の娘・義姫(よしひめ)でした。幼名(ようみょう=おさな名)は梵天丸(ぼんてんまる)と名付けられました。

1577年(天正(てんしょう)五年)11月15日、元服(げんぷく)して藤次郎政宗(とうじろう まさむね)と名乗りました。12月5日、祖父・晴宗(はるむね)が亡くなりした(享年五十九年)。

以上諸説あり。