今川義元(1/8)(1519年)

 今川義元(いまがわ よしもと,1519~1560)は、東海地方(とうかい ちほう)の駿河(するが=現在の静岡県(しずおかけん)中部および東部)・遠江(とおおうみ=現在の静岡県西部)を支配していた戦国大名(せんごく だいみょう=戦国時代、各地に割拠(かっきょ=それぞれが自分の領地を本拠地(ほんきょち)として勢力を張ること)した領主)でした。小さいときから頭がよかったが、五男でほかに兄たちがいたため、寺にあずけられていました。このとき僧(そう=お坊さん)の太原雪斎(たいげん せっさい)から学問を学んでいました。その後、後継ぎ争いが起きたとき、義元は雪斎のたすけをえて兄に勝利し、今川家を継ぎました。甲斐(かい=現在の山梨県(やまなしけん))の武田家(たけだ け)は、今川家の敵でしたが、信虎(のぶとら=武田信玄(たけだ しんげん)の父)が信玄から追い出されると、義元は信虎を受け入れ、信虎の娘と結婚し、武田氏と仲直りをしました。また、義元は相模(さがみ=現在の神奈川県(かながわけん)の北東部を除く大部分)の北条氏(ほうじょう し)とも、子どもどうしを結婚させて、同盟(どうめい=共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること)を結びました。三河(みかわ=現在の愛知県(あいちけん))の松平家(まつだいらけ)も従(したが)え、義元の力は安定し、巨大になりました。「東海道一の弓取り(とうかいどう いち の ゆみとり=東海に大国を築いた大名」を指す)」と呼ばれた義元は、天下統一(てんか とういつ)の果たせる武将(ぶしょう=武士の大将)として期待されました。ところが1560年、尾張(おわり=現在の愛知県(あいちけん)西部)に攻(せ)めこんだとき、桶狭間(おけはざま)で休息していたところを織田信長(おだ のぶなが)におそわれ、戦死してしまいました(桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい=現在の愛知県名古屋市緑区(なごやし みどりく)と同県豊明市(とよあけし)にまたがる地域で行われた今川軍と織田軍との戦い))。

ここでは、今川義元が生まれた1519年を勉強します。

1519年(永正(えいしょう)十六年)この年、駿河国と近江国の守護大名(しゅご だいみょう=室町時代に領主となった守護(治安(ちあん=世の中をやすらかに治めること)・警備(けいび=思いがけない事件にそなえ、注意して守ること)に当たる地方の役人))・今川氏親(いまがわ うじちか)の五男として、義元は生まれました。母は氏親の正室(せいしつ=身分の高い人の正式な妻)で公家(くげ=朝廷(ちょうてい=天皇が政治を行う所)に仕える人)、権大納言中御門宣胤(ごんのだいなごん なかみかど のぶたね)の娘・寿桂尼(じゅけいに)でした。幼名(ようみょう=おさないときの名)は、方菊丸(ほうぎくまる)でした。

以上所説あり。