
上杉謙信は寺へ修行に入ったが、合戦の計画を立てたりして、坊主には向いてないといわれ、一方、兄晴景(はるかげ)は体が弱く、それにより越後の政治が乱れてしまいます。そこで19歳謙信が寺から戻り、長尾家を継ぐことになりました。
ここでは、上杉謙信が生誕(1530年)してから、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)の官途と従五位下(じゅごいげ)の位階を得る(1552年)までを勉強します。
1530年(享禄(きょうろく)三年)1月21日長尾虎千代(とらちよ=幼名)、父府内長尾為景(ふない ながお かげため)と栖吉長尾氏(すよし ながお うじ)の娘の間に生まれました。
1536年(天文(てんぶん)五年)8月、長尾為景(ながお かげため)は上条方(じょうじょうのかた)に敗れ、隠居(いんきょ=官職・家業などから離れて、静かに暮らすこと)しました。家督(かとく=あととり)は晴景(はるかげ=のちの上杉謙信の兄)に譲りました。
1543年(天文十二年)8月、元服(げんぷく=成人)して長尾景虎(ながお かげとら)と名乗りました。
1548年(天文十七年)景虎、兄晴景(はるかげ)を追い落し、春日山城(かすがやま じょう=新潟県上越市にあった城)に入城しました。晴景(はるかげ)に代わり越後(佐渡ヶ島を除く新潟県)の盟主(めいしゅ=同盟の中で中心となる人)となりました。
1549年(天文十八年)景虎、知行安堵(ちぎょう あんど=土地の支配を与えること)の文書を出しました。また橋の通行人から橋賃(はしちん)を徴収(ちょうしゅう=金銭などを取り立てること)し歩渡り(あるきわたり)を禁止する法令を出しました。
1550年(天文十九年)2月、将軍足利義藤(あしかが よしふじ=のちの義輝(よしてる))より白傘袋・毛氈鞍覆(しろかさぶくろ・もうせんくらおおい=守護職にある地位に使用が認められるもの)の許可を得ました。
12月、上田長尾家(うえだ ながお け)の当主長尾政景(ながお まさかげ)と景虎が対抗しました。
1552年(天文二十一年)1月、北条氏康(ほうじょう うじやす)の上野(こうずけ=現在の群馬県)進出により、関東管轄(南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名)
上杉憲政(うえすぎ のりまさ)が平井城(ひらい じょう=現在の群馬県藤岡市にあった城)を逃れ、景虎のもとに来ました。5月、京都より弾正少弼(だんじょうしょうひつ)の官途と従五位下(じゅごいげ)の位階を得ました。
以上諸説あり。