真田昌幸(3)(1564年~1573年)

ここでは、1564~1573年に真田昌幸(さなだ まさゆき)が係わった出来事を勉強します。

1564年(永禄七年) 昌幸は、山手殿(やまのてどの※1)と結婚しました。

1566年(永禄九年) 長男・信幸(のぶゆき※1-1)が生まれました。

1567年(永禄十年) 昌幸は、武田信玄(たけだ しんげん※2)の命(めい=言いつけ)により、武田家の家臣(かしん=けらい)・武藤家(むとうけ)の家督(かとく=家を相続する(そうぞくする=うけつぐ)こと。一族の長)を継ぐことになり、武藤喜兵衛(むとう きへえ)と名乗ることになりました。尚、この年、次男・信繁(のぶしげ※1-2)が生まれました。

1569年(永禄十二年) 10月、喜兵衛は、相模国三増峠(さがみのくに みますとうげ=現在の神奈川県愛甲郡愛川町(かながわけん あいこうぐん あいかわまち)周辺)の戦いで、一番槍(いちばんやり=戦場(せんじょう)で、第一番に敵陣(てきじん=敵の陣地(じんち))に駆(か)け入って、槍(やり)を突(つ)き入れること)の軍功(ぐんこう=いくさのてがら)を挙(あ)げました。

1572年(元亀(げんき)三年) 12月、武田信玄は遠江国(おうみのくに=現在の静岡県(しずおかけん)西部)で徳川家康(とくがわ いえやす※3)・織田(おだ)連合軍と戦い破りました(三方ヶ原(みかたがはら)の戦い)。この頃、喜兵衛は、武田家の奉行人(ぶぎょうにん=上位者の命令を受けて実際に行うひと)になりました。

1573年(元亀四年) 4月、武田信玄は病(やまい=病気)にかかり、悪化(あっか=じょうたいが悪くなること)したため、上洛戦(じょうらくせん=京都に入るための戦い)から引き返す途上(とじょう=目的地に行く途中)、12日に信濃国駒場(しなののくにこまば=現在の長野県下伊那郡阿智村(ながのけん しもいなぐん あちむら))で病死しました。享年五十三でした。武田家は、四男の勝頼(かつより※4)が跡を継ぎました。

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※1 やまのてどの、1549~1613=昌幸の正室(せいしつ=身分ある人の正式な妻)。真田信之(さなだ のぶゆき※1-1)・信繁(のぶしげ※1-2)の母
※1-1 さなだ のぶゆき、1566~1658=真田信之(のぶゆき)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。信濃上田(しなの うえだ=現在の長野県上田市(ながのけん うえだし))藩(はん※1-1-1)の初代藩主(はんしゅ※1-1-2)、後に信濃松代(まつしろ=現在の長野県長野市松代町松代)藩の初代藩主。昌幸(まさゆき※1-1-3)の嫡男、母は山手殿、弟は幸村(ゆきむら※1-1-5)。
※1-1-1 はん=諸侯(しょこう=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地として)いた時代)の大名(だいみょう=ある地域を支配している者))が治める領地(りょうち=自分のものとしてもつ土地)、およびその統治(とうち=まとめおさめること)組織
※1-1-2 はんしゅ=江戸時代、領地をもつ主(あるじ)で統治機構(とうちきこう=国を統治する仕組み)を作る主。とのさま
※1-1-3 さなだ まさゆき、1547~1611=武将、大名。父は真田幸隆(ゆきたか※1-1-3-1)
※1-1-3-1 さなだ ゆきたか、1513~1574=真田幸綱(ゆきつな)。武将
※1-1-4 さなだ ゆきむら、1567~1570=真田信繁(のぶしげ)。武将、大名。
※1-2 さなだ のぶしげ、1567~1570=真田幸村(ゆきむら)。武将、大名

※2 たけだ しんげん、1521~1573=甲斐(かい=現在の山梨県(やまなしけん))の守護大名(しゅご だいみょう※2-1)・戦国大名(せんごく だいみょう※2-2)。甲斐源氏(かい げんじ(清和源氏家系図参照)の嫡流(ちゃくりゅう=正統(せいとう)の血筋(ちすじ)))にあたる甲斐武田家第19代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)
※2-1 しゅご だいみょう=室町時代(むろまち じだい※2-1-1)の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人
※2-1-1 むろまち じだい=足利(あしかが)将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん※1-1-1-1))家によって統治されて(とうちされて=まとめおさめられて)いた時代。
※2-1-1-1 せいいたいしょうぐん=武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。
※2-2 せんごく だいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名

※3 とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。豊臣政権の五大老の一人。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。江戸幕府(えどばくふ※3-1)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(家康・織田信長(おだ のぶなが※3-2)・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし※3-3)))の一人

※3-1 とくがわ ばくふ=家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権(ぶけ せいけん※3-1-1)
※3-1-1 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)
※3-2 おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわし へいわちょう しろのうち))織田家5代当主。武将(ぶしょう=武士の大将)・戦国大名。のちの天下人。三英傑の一人
※3-3 とよとみ ひでよし、1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人

※4 たけだ かつより、1546~1582=甲斐(かい=現在の山梨県(やまなしけん))の戦国大名。甲斐源氏(かい げんじ(清和源氏の家系図参照)の嫡流(ちゃくりゅう=正統(せいとう)の血筋(ちすじ)))にあたる甲斐武田家第20代当主。

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以上所説あり。