ここでは、1589年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。
1589年(天正(てんしょう)十七年)4月8日、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1537~1598=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)が御成(おなり=宮家(みやけ=※1)、摂家(せっけ=※2)、将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号))など貴人が外出することや訪ねて来ること。 ※1 皇族(こうぞく=天皇の親族(しんぞく=みうち))で特に宮号(みやごう=皇族(こうぞく=天皇の親族(しんぞく=みうち))男子が天皇より与えられる称号(しょうごう=呼び名)。宮号を有する者は「○○宮」と称す(しょうす=名乗る))を天皇から与えられた家。※2 摂政(せっせい=天皇が幼いときや女性のときに、天皇に代わって政治を行うひと)・関白(かんぱく=※3)に任ぜられる家柄。※3 天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方)は、前田利家(1539~1599=武将、戦国大名(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代で、各地に領国を形成した大名)。加賀(かが)藩主(はんしゅ=とのさま)前田氏の祖(そ=祖先)。豊臣政権の五大老(たいろう=豊臣時代の職名)の一人)邸に入り、足利義政(あしかが よしまさ、1436~1490=室町幕府(むろまちばくふ=足利尊氏が京都で創始(そうし=新たに物事をはじめること)した武家政権)第8代将軍)時代の御成(おなり=貴人(きじん=身分や地位が高い人)が外出すること)記録に基づいて17献を行いました。この時、忠興(ただおき、1563~1646=細川ガラシャの夫。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)は前田利長(まえだ としいえ、1562~1614=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家(まえだ としいえ、※)の長男 (※1539~1599=武将、戦国大名(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代で、各地に領国を形成した大名)。加賀(かが=現在の石川県南部)藩主(はんしゅ=とのさま)前田氏の祖(そ=祖先)。豊臣政権の五大老(たいろう=豊臣時代の職名)の一人))、蒲生氏郷(がもう うじさと、1556~1595=蒲生賢秀(がもう かたひで、1534~1584=武将。六角(ろっかく)氏、織田(おだ)氏の家臣(かしん=けらい))の三男。武将)、丹羽長重(には ながしげ、1571~1637=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。丹羽長秀(には ながひで、1535~1585=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。織田(おだ)氏の宿老(重要な職務(しょくむ=役目)にある臣下(しんか=けらい)))の長男)、森忠政(1570~1634=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。信濃(しなの=長野県(ながのけん)、岐阜県中津川市(ぎふけん なかつがわし)の一部)川中島(かわなかじまはん)藩主、後に美作津山藩の初代藩主)と共に酌の(しゃく=酒を杯(さかづき)につぐ)役を努めていました。5月には、聚楽(じゅらく=秀吉が内野(うちの=現在の京都府京都市上京区(きょうとふ きょうとし かみぎょうく))に建てた政庁(せいちょう=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構※1 を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)上の事務などを行う役所)および邸宅。(※ とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み))の門内で、秀吉が金銀三十六万五千両を一門(一族)・外様(一門(いちもん=一族)または譜代の(ふだいの=代々その家系が続いてきている)家臣(かしん=けらい)でないこと)の大名に下されましたが、忠興は少将(しょうしょう=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官職の一つ)の筆頭(ひっとう=名を書き連ねた中の一番目)として、これを受けました。そして9月には、丹後(たんご=現在の京都府(きょうとふ)北部)一国十一万七百が細川幽斎(ほそかわ ゆうさい=1534~1610=細川藤孝(ほそかわ ふじたか)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。詩人)、忠興父子に対して「一職(遺領(いりょう=死後に残された領地)、遺産(いさん=死後に残された財産)のこと)」を扶助(ふじょ=力添えして助けること)されました。軍役(ぐんえき=軍隊で、軍人として務めること)は忠興が三千人、幽斎が千人と決められ、この外「無役(むえき=役目のないこと)」として忠興分二万四千七百石、幽斎分六千石を与えられました。こうして、細川忠興は秀吉の大名と位置付けられ、所領(領有している土地)安堵(あんど=物事がうまく行って安心すること)を受けました。この安堵された所領に見合った軍役(ぐんえき=軍隊で、軍人として務めること)、普請役(ふしんやく=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)、諸士(しょし=多くのさむらい)、領民(りょうみん=ある領地内に住んでいる人たち)などに課(か)せられた城郭(じょうかく=城の周囲に設けた囲い)・河川(かせん=川)・道路の修築(しゅうちく=建物などを修理すること)などの夫役(ぶやく=労働力で納める税))は11月から始まった後北条攻め(ごほうじょうぜめ=小田原征伐(おだわら せいばつ)、北条攻め(ほうじょうぜめ)とも言う。秀吉が、北条氏政(ほうじょう うじまさ、※1)と北条氏直(ほうじょう うじなお、※3)らを攻め、これを滅(ほろ)ぼした戦い。(※1 1538~1590=相模国(さがみのくに=現在の神奈川県(かながわけん)の大部分(北東部を除く))の戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)・武将。後北条氏の第4代当主。 ※2 1562~1591=武将・大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。相模国の戦国大名。後北条氏の第5代当主。))や淀城(よどじょう=現在の京都府京都市伏見区淀本町(きょうとふ きょうとし ふしみく よどほんまち)にあった城)の普請(ふせい=土木・建築の工事)を、早速、勤めることことになりました。
以上所説あり。