ここでは、1564年~1565年までに、朝倉義景(あさくら よしかげ)が、たずさわったことを勉強します。
1564年(永禄(えいろく)七年)9月1日、朝倉景鏡(あさくら かげあきら)と朝倉景隆(あさくら かげたか)は、加賀国(かがのくに=現在の石川県(いしかわけん)南部)に出陣しました(しゅつじんしました=戦いに行きました)。同月12日、義景、自らも加賀国に出馬(しゅつば=戦場に出向くこと)して本折城(もとおりじょう=現在の石川県小松市本折(いしかわけん こまつし もとおり)にあった城)・小松城(こまつじょう=現在の石川県小松市丸の内町(いしかわけん こまつし まるのうちちょう)にあった城)を落としました。同月19日、湊川(みなとがわ)に火を放ち、25日に帰国しました。
1565年(永禄八年)2月24日、義景、加賀国に出陣し、上杉輝虎(うえすぎ てるとら)の援軍(えんぐん=たすけの軍隊)を要請(ようせい=必要なこととして、強く願い求めること)しました。しかし、輝虎は援軍の約束を反故(ほご=約束や決まりなどを取り消したり、破ったりする)にし、上野国(こうずけのくに=現在の群馬県(ぐんまけん))に出陣しました。5月19日、室町(むろまち)幕府(ばくふ=武家による政治組織)第十三代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府政権の長たる者の称)・足利義輝(あしかが よしてる)が、松永久秀(まつなが ひさひで)らによって殺されました。義輝の弟・一乗院覚慶(いちじょういん かくけい=のちの室町幕府第十五代征夷大将軍・足利義昭(あしかが よしあき))は、松永久秀の手で、興福寺一条院(こうふくじいちじょういん=現在の奈良県奈良市(ならけん ならし))に幽閉(ゆうへい=ある場所に閉じこめて外に出さないこと)されました。7月28日、細川藤孝(ほそかわ ふじたか=幽斎(ゆうさい))、義景に危機(きき=あやうい状態)を知らせて覚慶を脱出(だっしゅつ)させました。覚慶は、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県(しがけん))の和田秀盛(わだ ひでもり)を頼り、和田惟政(わだ これまさ)に導かれ、矢島(やじま=現在の滋賀県守山市矢島町(しがけん もりやまし やじまちょう))に移りました。
以上諸説あり。