佐々成政(2/17)(1554年~1560年)

ここでは、1554~1560年に、佐々成政(さっさ なりまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1554年(天文(てんぶん)二十三年)12月、父・成宗(なりむね)が亡くなりました。享年七十六でした。兄・成吉(なりよし)が、佐々家(さっさけ)を相続し、比良城主(ひら じょう しゅ)になりました。

1555年(弘治(こうじ)元年)4月、織田信長(おだ のぶなが)、那古野城(なごや じょう=現在の愛知県名古屋市中区本丸(あいちけん なごやし なかく ほんまる)にあった城)より、清須城(きよす じょう=愛知県西春日井郡清洲町(にしかすがいぐん きよすちょう)にあった城)に移りました。

1556年(弘治二年)8月、稲生の戦い(いのうのたたかい=愛知県名古屋市西区稲生町(にしく いのうちょう)で行われた織田信長と織田信行(おだ のぶゆき)との戦い)で、次兄・成経(孫介)が戦死しました。成政、犬山城(いぬやま じょう=現在の愛知県犬山市にあった城)の家老(かろう=大名の家臣のうちの最重職)・角田新五(つのだ しんご)を討ちとりました。

1558年(永禄元年)7月、信長、岩倉城(いわくら じょう=現在の愛知県岩倉市下本町(しもほんまち)にあった城)主・織田信賢(おだ のぶたか)を浮野の戦い(うきののたたかい=現在の愛知県一宮市千秋町(いちのみやしちあきちょう)で行われた織田信長と織田信賢との戦い)で撃破(攻撃して敵をうちやぶること)しました。成政は信長に属して戦いました。この年、成政、信長から鉄砲のことをまかされました。

1559年(永禄二年)6月、前田利家(まえだ としいえ)が、拾阿弥(じゅうあみ)を斬殺(きり殺すこと)し、成政の比良城(ひら じょう=愛知県名古屋市西区比良(にしく ひら)にあった城)に身を寄せました。

1560年(永禄三年)5月、信長、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい=現在の愛知県豊明市栄町(とよあけし さかえちょう))で行われた織田軍と今川軍の戦い)で、今川義元(いまがわ よしもと)を撃破しました。成政は今川軍と戦いました。兄・政次(まさつぐ)が享年三十八で戦死しました。成政、佐々家を相続して比良城主となりました。9月、成政、信長の命により、墨俣(すのまた じょう=現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣(ぎふけん おおがきし すのまたちょう すのまた))築城にとりかかりました。この年、成政の長男・松千代が誕生しました。

以上諸説あり。