徳川家康(4/12)(1572年~1581年)

ここでは、三方ヶ原合戦(みかたがはらがっせん)で織田徳川連合軍が武田勢に敗れてしまってから(1572年)、遠江国の平定をした年(1581年)まで勉強します。

1572年(元亀(げんき)三年)10月、武田信玄(たけだ しんげん)が近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)への侵攻(しんこう=他国や他の領地に攻め込むこと)を開始し、12月22日、三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)が起きましたが、織田・徳川連合軍(おだ・とくがわ れんごうぐん)が、武田勢に敗れてしまいました。

1573年(天正(てんしょう)元年)9月、三河長篠城(みかわ ながしの じょう=愛知県新城市長篠にあった城)を攻略しました。

1574年(天正二年)6月17日、武田勝頼(たけだ かつより)が遠江高天神城(とおとうみ たかてんじん じょ=現在の静岡県掛川市上土方・下土方にあった城)を攻略しました。

1575年(天正三年)4月、大岡弥四郎事件(おおが やしろう じけん)が勃発(ぼっぱつ=突然発生すること)し、武田勝頼(たけだ かつより)が三河国(みかわのくに=現在の愛知県東部)へ侵攻(しんこう=他国や他の領地に攻め込むこと)しました。5月21日、長篠の戦い(ながしの のたたかい=現在の愛知県新城市において行われた、武田勝頼と徳川家康・織田信長連合軍との合戦)が起こりました。戦後、奥三河(おくみかわ=現在の愛知県新城市、北設楽郡、豊田市東部)と諏訪原(すわはら=現在の静岡県島田市金谷)・二俣(ふたまた=現在の静岡県浜松市天竜区二俣町)などの遠江諸城(とおとうみ しょじょう)を攻略しました。

1577年(天正五年)閏7月、遠江高天神城(とおとうみ たかてんじん じょ=現在の静岡県掛川市上土方・下土方にあった城)を攻撃しました。

1579年(天正七年)8月、松平信康(まつだいら のぶやす)事件が勃発しました。(8月29日に築山殿(つきやまどの=徳川家康の妻)が殺害され、9月15日に信康が自害しました。)9月、相模(さがみはら=現在の川崎市と横浜市以外の神奈川県)北条氏(ほうじょうし)と同盟(どうめい=共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること)を結びました。

1581年(天正九年)3月22日、遠江国の平定(へいてい=敵を討ち平らげること)をほぼ成し遂げ(なしとげ)ました。

以上所説あり。