黒田官兵衛(4/4)(1592年~1604年)

ここでは、朝鮮漢城(ちょうせん かんじょう=現在の韓国のソウル)で軍評定(いくさひょうじょう=合戦の作戦会議)した年(1592年)から、逝去する(1604年)までを勉強します。

1592年(文禄(ぶんろく)元年)五月、朝鮮(ちょうせん)に渡りました。八月、漢城で宇喜多秀家(うきた ひでいえ)らと軍評定(いくさひょうじょう=合戦の作戦会議)をしました。

1593年(文禄二年)五月、秀吉(ひでよし)の勘気(かんき=主君からのとがめ)を蒙った(こうむった=目上の者から与えられたものを受け入れる)ため剃髪(ていもう=頭髪を剃る)し、如水(じょすい)と名付けられました。この年、再び朝鮮に渡りました。

1594年(文禄三年)三月、朝鮮より帰国しました。

1595年(文禄四年)八月二十一日、播磨国揖東郡内(はりまのくに いっとうぐんない)において二千石を、給付されました。

1597年(慶長(けいちょう)二年)二月、朝鮮への渡海準備のため、京都を離れ領国豊前(ぶぜん=現在の福岡県東部・大分県北部)に戻りました。

1598年(慶長三年)この年の四月以前、朝鮮から帰国しました。

1599年(慶長四年)十二月、領国中津(なかつ=豊前の中央)に戻りました。

1600年(慶長五年)九月十三日、関ヶ原合戦(せきがはらのかっせん)に際し、石垣原(いしがきばる=現在の大分県別府市の中央部)で大友義統(おおとも よしむね)軍を撃破しました。十月、加藤清正・鍋島直茂(かとう きよまさ・なべしま なおしげ)とともに柳川城(やながわ じょう=福岡県柳川市本城町にあった城)を攻め、立花宗茂(たちばな むねしげ)を倒しました。十二月、筑前(ちくぜん=現在の福岡県北西部)に入国し、名島城(なじま じょう=現在の福岡県福岡市東区名島にあった城)に入りました。

1601年(慶長六年)正月十七日、同月二十九日、三月十七日、五月二十五日、在京(京都に滞在)し、里村一門(さとむらいちもん)を始め、中央文人と連歌(れんが=和歌を使った文芸のひとつ)をもよおしました。十月九日、島飼村(とりかいむら=福岡城の西方)における長政(ながまさ=息子)主催の口切の茶会(その年の新茶を葉のまま陶器の壺に入れ、口を封じて保存し、冬にその封を切り、茶臼でひいて茶をたて、口切の茶事として客を招いてふるまうこと)に参席しました。

1602年(慶長七年)正月十五日、領国筑前(ちくぜん)において神屋宗湛(かみや そうたん)の茶会に参席しました。正月十六日、長政・光方らと連歌をもよおしました。三月九日、在京し、里村紹巴(さとむら じょうは)らと連歌をもよおしました。四月二十六日、里村紹巴のための追善連歌会(ついぜんれんがかい=亡者の冥福を祈って行う連歌会)を際しました。十二月二十五日、島飼村で神屋宗湛らと茶会を開きました。

1603年(慶長八年)正月、上洛(京都に行く)して高台院(こうだいいん=北政所(きたのまんどころ))を見舞いました。十一月、有馬(ありま)へ湯治(とうじ)に赴(おもむ)きました。

1604年(慶長九年)三月二十日、五十九歳で逝去(せいきょ=なくなる)しました。

以上所説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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