豊臣秀吉(1/13)(1537年~1569年)

 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、庶民(しょみん)の家の出身であるにもかかわらず、信長に才能を認められ、驚異(きょうい=驚くほど素晴らしい)の出世を突(つ)き進みました。

 ここでは幼少期(1537年)から姉川(あねかわ=現在の滋賀県北部を流れる淀川水系の一級河川)の戦い(1569年)の一年前までを勉強します。

1537年(天文(てんぶん)六年)2月、豊臣秀吉は、尾張中村(おわり なかむら=愛知県名古屋市中村区)の貧しい農家に住んでいた、父・木下弥右衛門(きのした やえもん)と母・なか との間に生まれました。

1543年(天文十二年)1月、父弥右衛門は病死し、母なかは竹阿弥(ちくあみ)と再婚しました。

1551年(天文二十年)、今川義元(いまがわ よしもと)の部将・松下加兵衛之綱(まつした かへい ゆきつな)に仕えました。

1554年(天文二十三年)、清洲城(きよす じょう=現在の愛知県清須市一場にあった城)の織田信長(おだ のぶなが)に仕えます。

1560年(永禄(えいろく)三年)5月、今川義元が織田信長に討たれる。(桶狭間(おけはざま=現在の名古屋市緑区と豊明市(とよあけし))の戦い)

1561年(永禄四年)8月、浅野長勝(あさの ながかつ)の養女ねねと結婚する。

1565年(永禄八年)11月、坪内文書(つぼうち ぶんしょ)に「木下藤吉郎秀吉(きのした とうきちろう ひでよし)」と署名した。

1566年(永禄九年)美濃(みのう=現在の岐阜県南部)斎藤竜興(さいとう たつおき)攻めのため、信長の命により、墨俣(すのまた=現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣)に一夜城を築く。

1567年(永禄十年)9月、信長、斎藤竜興を攻め滅ぼし、稲葉山城(いなばやまじょう=現在の岐阜県岐阜市の金華山にあった城)に入りました。

1568年(永禄十一年)9月、信長、足利義昭(あしかが よしあき)を奉じて(ほうじて=義昭を担(かつ)ぎ上げて)入京しました(京都に入りました)。
足利義昭が室町幕府十五代将軍になる。

1569年(永禄十二年)4月、信長の命により京都二条城(にじょう じょう=現在の京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある城)の警護をしました。8月、但馬(たぢま=現在の兵庫県北部)・播磨(はりま=現在の兵庫県南西部)に出陣(しゅつじん)し、
ついで北伊勢(きたいせ=三重県四日市市周辺の北勢地域)に出陣(しゅつじん)しました。

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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