ここでは、秀吉が亡くなる年(1598年)を勉強します。
1598年(慶長(けいちょう)三年)1月、会津(あいづ=福島県西部)の蒲生秀行(がもう ひでゆき)を宇都宮(うつのみや=栃木県中部)に封(ふう)じ、越後(えちご=新潟県)の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を合図に転封(てんぽう=大名の配置替えのこと)しました。
蔚山城(うるさん じょう=現在の韓国の蔚山広域市にある城)、明軍(みんぐん)の兵糧攻め(ひょうろうぜめ=食糧補給の道を断(た)って敵の戦闘力を弱らせる攻め方)に合い、日本軍苦戦しました。
2月、京都醍醐寺三宝院(だいごじ さんぼういん=現在の京都市伏見区醍醐にある寺院))で花見の宴(うたげ)を催(もよお)す用意をしました。
加藤清正(かとう きよまさ)ら、蔚山城(うるさん じょう=現在の韓国の蔚山広域市にある城)を修築(しゅうちく=直す)しました。
3月、醍醐(だいご=京都府京都市伏見区)で花見を開き、秀頼はじめ諸大名・北政所(きた の まんどころ=ねね)・淀君(よどぎみ=茶々)らが参会(会合に参加すること)しました。
朝鮮(ちょうせん=現在の朝鮮半島)に兵糧米(ひょうろうまい=軍兵の食糧米)や弾薬などを送りました。
4月、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の所領筑前国名島領(しょりょう ちくぜんのくに なじま りょう)を収公(しゅうこう=没収)し、豊臣家直轄地(ちょっかつ=豊臣家の支配地)となりました。
秀頼、天皇に拝謁(はいえつ=会う)し、従二位(位階の一。正二位の下、正三位の上)権中納言(しょうにい ごんのちゅうなごん=官職の一)となる。ついで伏見城(ふしみ じょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)に帰りました。
5月、病(やまい)がひどくなり、寝たきりとなりました。毛利秀元(もうり ひでもと)・吉川広家(きっかわ ひろいえ)・蜂須賀家政(はちすか いえまさ)・脇坂安治(わきざか やすはる)・藤堂高虎(とうどう たかとら)ら、次々と帰国しました。
高野山金剛峰寺(こうやさん こんごうぶじ=和歌山県伊都郡高野町高野山にある寺)の金堂(こんどう)を伏見城(ふしみ じょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)に移しました。
7月、北政所(きた の まんどころ=ねね)、夫の病気がすっかり治ることを祈って、内侍所(ないしどころ)で神楽(かぐら)を催(もよお)す。
天皇、畿内(きない=当時の日本の中心であった山城・大和・河内・和泉・摂津の5箇国)の諸寺社(しょじしゃ)に命じて、病気平癒(へいゆ=病気がなおること)を折祷(きとう=神仏にその加護・恵みを求めて祈ること)させる。
徳川家康・前田利家(まえだ としいえ)らの五奉行(ごぶぎょう)に、秀頼に二心(謀反の心が)ないことを誓わせる。ついで諸大名、前田邸(まえだてい)において誓約書(せいやくしょ)を出します。
死期(しき=死ぬとき)の近いことを悟り(さとり=感づく)、石田三成(いしだ みつなり)・長束正家(なつか まさいえ)・増田長盛(ました ながもり)・浅野長政(あさの ながまさ)・前田玄以(まえだ げんい)を五奉行(ごぶぎょう)に任せ、秀頼のことをたくしました。
遺品(いひん)として朝廷・諸公家(くげ)・諸大名に物品・金銀を配布しました。
8月、徳川家康・前田利家(まえだ としいえ)・毛利輝元(もおり てるもと)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)・家喜多秀家(うきた ひでいえ)にそれぞれ遺言状(ゆいごんじょう)を与え、五奉行の諸大名と誓約書(せいやくし)をかわし、
五奉行の諸大名と誓約書(せいやくし)をかわし、秀頼に忠節(ちゅうせつ=変わりなく尽くすこと)を誓いました。
五大老(ごたいろう)に明(みん=中国の歴代王朝の一つ)の置目(おきめ=まきえの工程の一つ)を依頼し、十六日、秀吉、亡くなりました。すぐに遺言(ゆいごん)通りに朝鮮(ちょうせん=現在の朝鮮半島)より撤兵(てっぺい=軍隊を派遣先から引きあげること)する。
以上諸説あり。