豊臣秀吉(9/13)(1593年~1594年)

ここでは、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)が生まれてから(1593年)、毛利秀元(もうり ひでもと)に、羽柴秀長(はしば ひでなが)の娘(むすめ)を嫁(とつ)がせるところ(1594年)までを勉強します。

1593年(文禄(ぶんろく)二年)1月、秀吉、渡海(とかい=海を渡る)の意思があることを藤堂高虎(とうどう たかとら)に報ずました(しらせる)。
このころから朝鮮(ちょうせん=現在の朝鮮半島)での明軍(中国軍=中国の歴代王朝の一つ)らの反撃が激しくなりました。
2月、平壌(へいじょう=現在のピョンヤン)で日本軍は敗退しました。黒田如水(くろだ よしたか)・浅野長吉(あさの ながまさ)・伊達政宗(だて まさむね)ら渡海(とかい=海を渡る)しました。
3月、守喜多秀家(うきた ひでいえ)、諸将(多くの将軍や大将)と講和(こうわ=交戦国どうしが取り決めを結び、戦争をやめ平和を回復すること)について協議しました。
5月、在朝鮮の諸将、釜山(プサン=現在の大韓民国南東部に位置する広域市、釜山広域市。)に集結しました。
6月、名護屋城(なごや じょう=現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋にあった城)で、明(みん)の使者に和議(わぎ=和睦(わぼく)のための協議)の条件を明示ました。
7月、大谷吉継(おおたに よしつぐ)ら、越後(えちご=現在の新潟県)を検地(田畑の面積と収量の調査)しました。
8月、淀君(よどぎみ=秀吉の側室。名は寧々。)、大坂城(おおさか じょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城)で秀頼(ひでより)を生みました。即時に大坂に帰えりました。京都大仏殿(きょうとだいぶつでん)を施工(せこう=大仏殿の工事を行う)しました。
10月、秀頼(ひでより)を秀次(ひでつぐ)の嗣子(しし=あととり)とし、秀次の娘との結婚を決めました。
11月、原田氏(はらだし)を高山国(こうざんこく=現在の台湾)に派遣(はけん)し、朝貢(ちょうこう=献上する品物))を求めました。
浅野長吉(あさの ながよし)に甲斐国府中(かいのくに ふちゅう=現在の山梨県甲府市)を与えられて甲府城(現在の山梨県甲府市にあった城)に入りました。

1594年(文禄三年)1月、伏見城(ふしみじょう=現在の京都市伏見区桃山にあった城)を築城。2月、伏見(ふしみ=現在の京都市南部の区名)で茶会を開きました。
関白秀次(かんぱく ひでつぐ)と吉野(現在の奈良県南部)で桜観、諸大名(多くの大名)が参会(多くの大名が参加)しました。
3月、吉野山(よしのやま=現在の奈良県吉野郡吉野町にある山)に登る。伏見城(ふしみ じょう)下に諸将の妻子を住まわせます。淀城(よどじょう)を廃城(はいじょう=住まなくなった城)にしました。
淀城(よどじょう=現在の京都府京都市伏見区淀本町にあった城)を廃城(はいじょう=住まなくなった城)にしました。ついで、伏見(ふしみ=現在の京都市伏見区内)の諸大名(多くの大名)の屋敷を訪ねました。
9月、石田三成(いしだ みつなり)、秀吉の命により島津氏(しまづし)の領国(りょうごく)を検地(けんち=土地の測量調査)しました。毛利秀元(もうり ひでもと)に、羽柴秀長(はしば ひでなが)の娘(むすめ)を嫁(とつ)がせました。
11月、秀頼を嗣子(しし=あととり)とするため、豊臣秀秋(とよとみ ひであき)を小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の養子にしました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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