細川ガラシャ(4/24)(1579年~1581年)

ここでは、1579年から1581年までに、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。

1579年(天正七年)織田(おだ)軍と籠城して(ろうじゅうして=城にこもり戦って)いた荒木村重(あらき むらしげ=武将・大名。利休十哲(りきゅう じってつ=千利休(せんのりきゅう=商人、茶人)の高弟(こうてい=弟子(でし)の中で、特にすぐれた弟子)10人)の1人)は、8月、一族(いちぞく=血のつながりのある者たち)妻子(さいし=妻と子)を残し、数人の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)と、荒木村次(あらき むらつぐ=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。荒木村重の嫡男(ちゃくなん=あととり))が守る尼﨑城(あまがさきじょう=現在の兵庫県尼崎市(ひょうごけん あまがさきし)にあった城)を介して花隈城(はなくまじょう=現在の兵庫県神戸市中央区(こうべし ちゅうおうく)にあった城)に逃げました。11月、細川忠興(ほそかわ ただおき、1563~1646=細川ガラシャの夫。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治して(とうしして)いた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地)する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)が、村重の妻とその他家臣(かしん=けらい)やその家族、三十人余は処刑(しょけい)しました。ただ、村安の妻だけは、明智光秀(あけち みつひで、~1582=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと))の長女であったため、処刑されませんでした。そして年末、長女は明智左馬助(あけちさますけ、1536~1582=明智秀満(あけち ひでみつ)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。明智光秀(あけち みつひで=~1582=武将、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの天下人)の長女の夫)と再婚(さいこん=再び結婚)しました。

1581年(天正九年)4月12日、細川氏が、宮津城(みやつじょう=現在の京都府宮津市(きょうとふ みやつし))に光秀、茶人・津田宗及(つだ そうぎゅう=~1591=堺(さかい=現在の大阪府堺市(おおさかふ さかいし))の商人、茶人)、連歌師(れんがし=連歌(れんか=和歌(わか=漢詩(かんし=中国の伝統的な詩)に対する日本の詩)を使った文芸(ぶんげい=言語によって表現される芸術の総称)のひとつです。和歌の上の句(五・七・五)と、下の句(七・七)を多数の人たちが交互(こうご=かわるがわる)に作り、ひとつの詩になるように競い合って楽しむこと)を職業とする者)・里村紹巴(さとむら じょうは=1525~1602=連歌師(れんがし=連歌(れんか=和歌(わか=漢詩(かんし=中国の伝統的な詩)に対する日本の詩)を使った文芸(ぶんげい=言語によって表現される芸術の総称)のひとつです。和歌の上の句(五・七・五)と、下の句(七・七)を多数の人たちが交互(こうご=かわるがわる)に作り、ひとつの詩になるように競い合って楽しむこと)を職業とする者))など招き、久世戸橋立(くせのと はしだて=現在の京都府宮津市文珠(きょうとふ みやつし もんじゅ))を遊覧(ゆうらん=あちこち見物してまわること)しました。5月、忠興の妹・伊也(いや=1568~1651=細川藤孝(1534~1610=細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。詩人)の娘)が一色五郎(いっしき ごろう、~1582=一色義定(いっしき よしさだ)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将))に嫁ぎました。

以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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