ここでは、細川ガラシャが生まれた1568年から1571年までに、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。
1568年(永禄十一年)7月、足利義昭(あしかが よしあき、1537~1597=室町幕府(むろまちばくふ=足利尊氏が京都(きょうと)で創始(そうし=新たに物事をはじめること)した武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))政権)の第15代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号))が織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=勝幡(しょばた=現在の愛知県愛西市勝幡町(あいちけん あいさいし しょばたちょう)と稲沢市平和町城之内(いなざわしへいわちょうしろのうち))織田家5代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)・戦国大名(せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名)。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人)の一人)を頼って朝倉氏支配下の越前から美濃(みのう=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)の岐阜城(ぎふじょう=現在の岐阜県岐阜市(ぎふけん ぎふし)の金華山(きんかざん)にあった城)に移った際、尽力(じんりょく=力をつくすこと)したことで、奏者(そうしゃ=主君(しゅくん=自分の仕えている君主(くんしゅ=世襲(せしゅう=その家の地位・財産・職業などを子孫が代々受け継ぐこと)により国を治める最高位の人)・殿様など)に奏事(そうじ=天皇に申し上げること)を行う役目を担った役職)として細川藤孝(ほそかわ ふじたか1534~1610=武将、大名。詩人)と両者が信長の家臣(かしん=けらい)。9月、信長と義昭の家臣として、上洛しました(じょうらくしました=京都に入りました)。
1569年(永禄十二年)上洛の準備過程での功績(こうせき=てがら)が信長に評価され(ひょうか=意義(いぎ=言葉、事柄、行為などが現実にもつ価値)を認めるられ)、奏者から重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)へ転身(てんしん=職業・身分などを変えること)し、木下藤吉郎(きのした とうきちろう、1537~1598=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)。武将・大名。天下人。初代・武家関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人)と丹羽長秀(には ながひで、1535~1585=武将、大名)と光秀の三者が中心になっていました。この年、信長の後援とキリシタンの献金により、村井貞勝(むらい さだかつ、~1582=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。織田氏の家臣(かしん=けらい))が、南蛮寺(なんばんじ=永禄寺(えいろくじ)。現在の京都府京都市中京区姥柳町(きょうとふ きょうとし なかぎょうく うばやなぎちょう)にあった寺社)の建設を始めました。また、忠興お妹・伊也(いや、1568~1651)は一色義定(いっしき よしさだ=~1582=武将。丹後国(たんごのくに=現在の京都府北部)守護(しゅご=室町時代の職の1つで、地方を支配するために置かれた役人))と結婚しています。
1571年(元亀(げんき)二年)光秀は近江坂本城(おうみ さかもとじょう=現在の滋賀県大津市下阪本(しがけん おおつし しもさかもと)にあった城)に移りました。
以上所説あり。