ここでは、1583年に、細川ガラシャがかかわったことを勉強します。
1583年(天正(てんしょう)十一年)細川忠興(ほそかわ だだおき,1563~1646=細川ガラシャの夫。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。のちの豊前(ぶせん=現在の福岡県(ふくおかけん)東部、大分県(おおいたけん)北部)小倉藩(こくらはん=豊前にあった藩(はん=江戸時代(えどじだい=徳川将軍家が日本を統治(とうち=自分のものとしてもつ土地と)していた時代)、大名の領地や統治機構(とうちきこう=国家を統治する仕組み)))初代藩主(はんしゅ=とのさま)、肥後(ひご=現在の京都府(きょうとふ)北部)細川家(ひごほそかわけ)初代)は、宮津城(みやつじょう=現在の京都府宮津市(きょうとふ みやつし)にある城)にガラシャの二人の子と側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)・お藤とその子・おこほと居り、隠居()した藤孝(ふじたか1534~1610=細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)、大名(だいみょう=ある地域を支配している者)。詩人。)は田辺城(たなべじょう京都府舞鶴市(きょうとし まいづるし)にある城)で隠居(いんきょ=家督(かとく=家を相続する(そうぞくする=うけつぐ)こと)をゆずり、定職(ていしょく=きまった職業)をはなれて、閑居すし(かんきょすし=世俗(せぞく=世の中)を離れて静かに暮らし))し、忠興の弟・興元(武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。常陸谷田部(ひたち やたべ)細川家初代・下野茂木(しもつけ もてぎ)藩主(はんしゅ=とのさま)。のち常陸谷田部藩初代藩主)は峰山城(みねやまじょう=現在の京都府京丹後市(きょうとふ きょうたんごし)にあった城)、松井康之(まつい やすゆき、1550~1612=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。松井正之(まつい まさゆき、※1)の次男。(※1 ~1563=将軍(しょうぐん=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=※2))・足利義晴(あしかが よしはる、※3)の重臣(じゅうしん=身分の高いけらい)。※2 武士による政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治(とうち=まとめおさめること)する仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)のトップの称号。※3 1511~1612=室町幕府(むろまちばくふ=※4)第12代将軍。※4 室町時代(むろまちじだい=足利(あしかが)将軍家によって統治されていた時代)における日本の武家政権(ぶけせいけん=※5)。足利尊氏(あしかが たかうじ、1305~1358)が京都で創始した。※5 武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権。)は久美浜城(くみはまじょう=現在の京都府京丹後市久美浜町(きょうとふ きょうたんごし くみはまちょう)にある城)とし、山城青龍寺城(やましろ しょうりゅうじょう=現在の京都府長岡京市勝竜寺(きょうとふ ながおかきょうし しょうりゅうじ)にあった城)時代と異なり、一族・家臣(かしん=けらい)は分散しました。ガラシャは味土野(みどの=現在の京都府京丹後市弥栄町味土野(きょうとふ きょうたんごし やさかちょういもの))で暮らし、清原いとらがガラシャに仕えました。この年、ガラシャは次男・興秋(おきあき、1563~1646)を産みました。
以上所説あり。