ここでは、朝鮮出兵のため、船奉行を命ぜられ、肥前名護屋(ひぜん なごや=現在の佐賀県唐津市)に入る年(1592年)から、三成領内の給人地(きゅうにんち=三成家臣の所領)に関する提(おきて)を出す年(1596年)までを勉強します。
1592年(文禄(ぶんろく)元年)二月、朝鮮出兵(ちょうせん しゅっぺい)のため、船奉行を命ぜられ、肥前名護屋(ひぜん なごや=現在の佐賀県唐津市にあった城)に入りました。
六月、三成、渡海部隊(とかい ぶたい)の奉行として朝鮮に渡りました。八月、諸将と漢城(かんじょう=現在のソウル)で作戦会議を開きました。
1593年(文禄二年)一月、明軍(みんぐん)を漢城にむかえ撃ちました。二月、幸州山(こうしゅうさん=現在の大韓民国高陽市徳陽区(だいかんみんこく こやんし とぎゃんく))を攻(せ)めました。
5月、明(みん)の講和使(こうわし)を伴(ともな)って肥前名護屋(ひぜん なごや=現在の佐賀県唐津市)に帰着しました。七月、越後(えちご=現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)の検地(けんち=土地調査)を行いました。
九月、再び朝鮮に渡り、ついで肥前名護屋(ひぜん なごや=現在の佐賀県唐津市)に引き上げて入る。兄正澄(まさずみ)従五位下(じゅごいげ)木工頭(もくのかみ=大工の棟梁(とうりょう))に任せられ、境(現在の大阪府南部)の奉行に捕われました。
1594年(文禄三年)九月、薩摩・大隅・日向(さつま・おおすみ・ひゅうが=現在の宮崎・鹿児島県)の検地(土地の測量調査)を行いました。同月、母の葬儀(そうぎ)を三玄院(さんげんいん=現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町)にて行いました。
十月、常陸・盤城・下野(ひたち・いわき・しもつけ=現在の茨城県・福島県東部から宮城県南部・栃木県)の佐竹(さたけ)領の検地(土地の測量調査)を行いました。
1595年(文禄四年)六月、大隅国(おおすみのくに=現在の大隅半島、薩南諸島)において六千三百石余(こくあまり)増えました。
七月、聚楽亭(じゅらくてい=現在の京都府京都市上京区にあった城)に赴き(おもむき=むかう)豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)の真意(しんい=本当の気持ち)を糺(ただ)しました。
同月、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)に忠誠を誓う血判誓書(けっぱんせいしょ=署名や花押に小刀などで指を突いて出た血を押した誓書)を秀吉に提出しました。
八月、佐和山城(さわやま じょう=現在の滋賀県彦根市にあった城)主に託(まか)せられ、十九万四千石(ごく)が三成の領地となりました。
1596年(慶長(けいちょう)元年)一月、再び豊臣秀頼(とよとみ ひでより)に忠誠を誓う誓書を提出しました。三月、三成領内の蔵入地(くらいりち=三成の直接支配する所領)及び給人地(きゅうにんち=三成家臣の所領)に関する提(おきて)を出しました。
同月、国友村(くにともむら=現在の滋賀県長浜市国友町)の年寄に勲功の賞として百石(こく)を与えました。
以上諸説あり。