直江兼続(27/28)(1615年~1616年)

ここでは、1615年~1616年までに、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、たずさわったことを勉強します。

1615年(元和(げんな)一年)1月、将軍秀忠(ひでただ)、大坂冬の陣(おおさか ふゆのじん)の戦功(せんこう=戦争で立てたてがら)を賞(しょう=ほめたてる)し、兼続を招いて感状(軍事面において特別な功労を果たした下位の者に対して、上位の者がそれを評価・賞賛するために発給した文書のこと)太刀一腰(たち ひとこし)及び小袖(こそで=広袖の着物に対して袖口が縫い詰まった着物のこと)を与えられました。2月、兼続、景勝と共に米沢城(よねざわ じょう=現在の山形県米沢市丸の内(やまがたけん よねざわし まるのうち)にあった城)に帰りました。4月、徳川家康(とくがわ いえやす)、再び大坂城(おおさか じょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城(おおさかふ おおさかし ちゅうおうく おおさかじょう)にある城)攻めの命令を発しました。同月、兼続、景勝(かげかつ)と米沢城を出発し、同月下旬、大坂(おおさか=現在の大阪府)に着陣(ちゃくじん=陣地に到着すること)しました。5月、兼続は八幡(やはた=現在の京都府八幡市(きょうとふ やわたし))に着陣し、大坂夏の陣(おおさか なつのじん)が行われ、大坂落城(らくじょう=城が攻め落とされること)しました。秀頼(ひでより)と淀君(よどどの)自刃(じじん=刃物を使って自らの生命を絶つこと)し、豊臣氏滅亡しました。6月、兼続、景勝と共に米沢城に帰りました。7月、兼続の嫡男(ちゃくなん=あとつぎ)・平八景明(へいはち かげあき)が死去しました。

1616年(元和二年)3月、兼続、景勝に従って駿府(すんぷ=現在の静岡県静岡市葵区(しずおかけん しずおかし あおいく))の徳川家康(とくがわ いえやす)の病気見舞(病人になった人などを訪れてなぐさめること)のため江戸(えど=東京の旧名)を出発しました。同月、江尻(えじり=静岡県静岡市清水区江尻町(しずおかけん しずおかし しみずく えじりまち))に到着し、家臣(かしん=家来)の取締(とりしまり=とりしまること)に関し掟書(おきてがき=中世後期から盛んになった公布法の一形式)を発しました。同月、金地院崇伝(こんちいん すうでん=江戸前期の臨済宗(仏教,禅宗の一派)の僧(そう=おぼうさん))、家康の命(めい=いいつけ)を奉じて(ほうじて=うけたまわって)兼続に律令(りつりょう=刑ばつと広い意味での法律)及び群書治要(ぐんしょちよう=中国、唐代の政治書。50巻。)を所持しているかどうかを尋ねました(たずねました=わからないことを人に聞くこと)。江尻滞在中(たいざいちゅう=家を離れてよそに長くとどまっていること)の兼続、兵具(ひょうぐ=いくさに用いる道具)を修繕(しゅうぜん=壊れたりしたところを直すこと)し、戦争に備えるよう水原親憲(すいばら ちかのり)に命じました。4月、徳川家康、75歳で死去し、駿河久能山(するが くのうざん=現在の静岡県静岡市駿河区根古屋)に埋葬(まいそう=死者を土にうめること)しました。10月、将軍秀忠(ひでただ)は、兼続の室(しつ=妻)に時服(四季の時候に合わせて着る衣服)二領(りょう=時服の助数詞)を下賜(かし=身分の高い人が身分の低い人に物を与えること)しました。11月、将軍秀忠、兼続に鷹狩り(たかかり)の雁(がん)一羽(は=雁の助数詞)を下賜しました。この年、群書治要を版刻(はんこく=板に彫った版木(はんぎ)を用いて印刷した書物のことを刊本,版本,刻本,雕本などと呼び,またそのように彫る行為を版刻という)しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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