直江兼続(26/28)(1614年)

ここでは、1614年に、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、たずさわったことを勉強します。

1614年(慶長(けいちょう)十九年)8月、兼続、本多正信(ほんだ まさのぶ)の懇情(こんじょう=親切な心)(高田城(たかだ じょう=現在の新潟県上越市本城町)普請(ふしん=家を建築したり修理したりすること)完了(かんりょう=すべてがおわること)の報告(ほうこく=告げ知らせること)、銘酒(めいしゅ)贈与(ぞうよ=金品を人に贈ること)の件)に礼を述べました。10月、家康(いえやす)、大坂城(おおさか じょう=現在の大阪府大阪市中央区大阪城(おおさかふ おおさかし ちゅうおうく おおさかじょう)にある城)攻めの命令をだしました。景勝、江戸(現在の東京都千代田区(とうきょうと ちよだく)を中心とする地域)へのぼる途中、下野鍋掛(しもつけ なべかけ=現在の栃木県那須塩原市鍋掛(とちぎけん なすしおばら しなべかけ))で、その命令を聞き、直ちに米沢城(よねざわ じょう=現在の山形県米沢市丸の内(やまがたけん よねざわし まるのうち)にあった城)に知られ、出陣(戦場へ向かうこと)の準備を命じました。兼続、留守(主人やが外出している間、その家を守ること)覚書(必要な事柄を忘れないように書き留めた書きつけ)を定めました。本年の年貢(ねんぐ=領主が毎年農民から取り立てたみつぎもの)、未納年貢(みのう ねんぐ=まだ収めていない年貢)の徴収(ちょうしゅう=金銭などを取り立てること)を命じました。留守衆として米沢城に西方次郎右衛門(さいほう じろう えもん)、三股九兵衛(みまた きゅうべい)、長尾伊賀守(ながお いがのかみ)、山田助之丞(やまだ すけのじょう)に任せ、鮎貝城(あゆかい じょう=現在の山形県西置賜郡白鷹町鮎貝(やまがたけん にしおきたまぐん しらたかまち あゆかい)にあった城)に下条駿河守(げじょう するがのかみ)、中山城(ながやま じょう=現在の山形県上山市中山にあった城)に横田式部少輔(よこたしきぶしょうゆう)、荒砥城(あらとじょう=現在の山形県西置賜郡白鷹町荒砥Z(やまがたけん にしおきたまぐん しらたかまち あらとおつ)にあった城)に北条左近助(ほうじょう さこんのすけ)、高畑城(たかはたけ じょう=現在の山形県東沖賜郡高畠町にあった城)に岩崎左馬助(いわさき さまのすけ)、福島城(ふくしま じょう=福島県福島市(ふくしまけん ふくしまし)にあった城)に中島壱岐(なかしま いき)、簗川城(やながわ じょう=現在の福島県伊達市梁川町字鶴ケ岡(ふくしまけん だてし やながわまち うじ つるおか)にあった城)に岩井靱負(いわい ゆきえ)を守らせました。同月、兼続は、大坂城攻めの準備を命じ、米沢城を出発しました。11月、兼続、藤枝(ふじえだ=現在の静岡県藤枝市)で景勝と合流し、この日、山城国木津(やましろのくに きづ=現在の京都府木津川市)に着陣(陣地に到着すること)しました。これより兼続、近江膳所城主(おうみ ぜぜ じょう しゅ)・戸田氏鉄(とだ うじかね)、本多正信(ほんだ まさのぶ)等と打ち合わせをしました。同月、兼続、未到着の上杉軍の催促(さいそく=物事を早くするようにうながすこと)、武具到着(ぶぐ とうちゃく)の手配を水原親憲(すいばら ちかのり)に命じました。同月、兼続、山城国玉水(やましろのくに たまみず=現在の京都府綴喜郡井手町井手北玉水(きょうとふ つづきぐん いでちょう いできた たまみず))に着陣しました。兼続、京都山科(きょうとやましな=現在の京都府京都市宇治郡山科町(きょうとふ きょうとし うじぐん やましなちょう))で軍令(ぐんれい=軍の命令)を発布(はっぷ=法律などを世間に広く告げ知らせること)しました。この日、兼続、本多正純(ほんだ まさずみ)より酒(さけ)・肴(さかな=酒を飲む際に添える食品を意味する語)贈与(ぞうよ=当事者の一方が自己の財産を無償で相手方に与えることを内容とする契約)があり答謝(とうしゃ=礼を言う)しました。同月、兼続、野陣道具(やじん どうぐ=野に設けた陣営の道具)ならびに兵糧運送(ひょうろう うんそう=食糧の運ぶこと)につき保科肥前守正光(ほしな ひぜんのかみ まさみつ)に印鑑(いんかん)を届けました。同月、兼続、本多正信・正純(まさずみ)、土井利勝(どい としかつ)の陣中慰問(陣営をたずね、なぐさめること)につき答謝しました。同月、大坂方と戦闘開始し、上杉軍、鴨野口(かものくち)の合戦(かっせん)で後藤基次(ごとう もとつぐ)軍と戦い勝利しました(大坂冬の陣)。須田長義(すだ ながよし)・水原親憲(すいばら ちかのり)・黒金康忠(くろがね やすただ)等、戦功(せんこう=戦争であげた功績)ありました。兼続、嫡男・平八景明(へいはち かげあき)と殿軍(でんぐん=最後尾の部隊)をつとめました。同月、本多正信より陣中見舞(陣営をたずね、病人や災難にあった人などを訪れて慰めたり、書面などで安否をたずねたりすること)として樽肴(たるざかな=贈り物のさかだると酒のさかな)が到着しました。兼続、答謝しました。同月、兼続、大坂冬の陣の勝利を江戸の千坂高信(ちさか たかのぶ)、米沢城の平林正恒(ひらはやし まさつね)に報じました。兼続、米沢の青柳隼人(あおやなぎ はやと)、下条駿河守(しもじょう すがるのかみ)の使者に答書(とうしょ=返事の手紙)しました。12月、兼続、戸田氏鉄(とだ うじかね)へ大坂落城(大坂城が攻め落とされること)の近いことを告げました。この日、兼続、本多忠朝(ほんだ ただとも)へ合いことばについて答書しました。同月、兼続、戸田氏鉄に近況(きんきょう=最近のようす)を報じました。同月、将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)と内大臣(ないだいじん=左大臣・右大臣に次ぐ官職)・豊臣秀頼(とよとみ ひでより)と和し(かし=混じり合う)。同月、兼続は、飛鳥井家清水某(あすかいけ しみず)より抹茶壺(まっちゃつぼ)を贈られ、礼をのべました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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