ここでは、1607年~1609年までに、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、たずさわったことを勉強します。
1607年(慶長(けいちょう)十二年)3月、兼続(かねつぐ)京都日蓮宗要法寺(現在の京都府京都市左京区新高倉通孫橋上る法皇寺町にある寺院)において文選(もんぜん=梁を建国した武帝の長子、昭明太子が編纂した全30巻の詩文集)30冊を刊行(書籍などを印刷して世に出すこと)しました。閏4月、景勝(かげかつ)、奥羽(おうう)の諸将・伊達政宗(だて まさむね)・蒲生氏郷(がもう うじさと)・佐竹義宜(さたけ よしのぶ)・最上義光(もがみ よしあき)等と江戸城天守台(えどじょう てんしゅだい=江戸城天守の土台)と石垣(いしがき=石を組み上げて作られた壁)を築きました。10月、景勝(かげかつ)、法度(はっと=禁じられていること)13カ月を家臣(かしん)に頒伏(はんぷ=品物や資料などを、広く配ること)しました。
1608年(慶長十三年)1月、兼続、重光(しげみつ)と改名(かいめい=名称を改めること)しました。同月、兼続、重光と自署(自分で自分の氏名を書き記すこと)して病のため江戸出府(えどしゅっぷ=武家が江戸に出ること)の延期(期日や期限を延ばすこと)を江戸家老(えどかろう=大名の江戸藩邸に勤務した家老)千坂伊豆守(ちさか いずのかみ)に報じました。この年、景勝、米沢城(よねさわ じょう)の外堀(そとぼり)を掘り、兼続は、総監(そうかん=官職の一つ)となりました。
1609年(慶長十四年)5月、幕府(ばくふ=征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を長とする武家の政権)、上杉領内(うえすぎ ようない)金銀吹分停止状を兼続に送りました。同月、兼続は、平林正恒(ひらはやし まさつね)に庶務(しょむ=いろいろな事務)を指揮しました。同月、兼続、米沢(よねざわ)城下に家臣(かしん=家来)の邸宅(やしき=屋敷)を定めました。須田忠長(すだ ただなが)に織絹業(きぬおりぎょう=絹糸で織ることを仕事とする)に創業(じぎょう=事業をはじめること)させました。6月、兼続、家臣の屋敷割り(やしきわり=屋敷地の割振り)についての注意、信夫地方(しのぶ ちほう=現在の福島県福島市の一部)の早天(そうてん=早朝)に対処して移米を厳禁(げんきん=きびしく禁止すること)するよう平林正恒(ひらはやし まさつね)に命じました。同月、幕府、上杉藩に10万石(こく=質量の単位)の役銭(やくせん=大工(だいく)・桶屋(おけや)・石屋(いしや)・鳶職(とびしょく)など、主に商工業者に課せられた雑税)を免除(めんじょ=義務や役目などを免じること)し、兼続の尽力(じんりょく=力をつくすこと)によりました。同月、直江大和守勝吉(なおえ やまとのかみ かつよし)、安房守(あわのかみ)と改めました。9月、兼続、弟・大国実頼(おおくに さねより)の娘を養女に迎え、直江勝吉に嫁す(かす=嫁に嫁ぎました)(慶長十年、兼続の長女於松が病死したので)。12月、兼続の嫡男(ちゃくなん)直江景明(なおえ かげあき)、本多正信(ほんだ まさのぶ)の媒妁(ばいしゃく=なこうど)で近江膳所城(おうみ ぜぜじょう=現在の滋賀県大津市丸の内町にあった城)主・戸田氏鉄(とだ うじかね)の娘と結婚(けっこん=夫婦になること)しました。景勝は喜び、兼続父子及び新婦(しんぷ=はなよめ)に祝儀(しゅうぎ=祝いの儀式)を下賜(かし=天皇などが、身分の低い人に物を与えること)。同月、兼続、米・大豆価格騰貴(だいず かかく とうき)の対策として餅・酒・豆腐を禁止し、米穀(べいこく=米)を江戸屋敷へ輸送(ゆそう=人や物を運び送ること)しないよう平林正恒(ひらはやし まさつね)に手紙を書きました。同月、兼続、在番武士(ざいばん ぶし=役人が交替制で二条城・大坂城などの勤務に当たったこと)を激励(げきれい=はげし、元気づけること)し、奢侈逸遊者(しゃし いつゆう しゃ=度をこえてぜいたくなこと、好きなことをして日を過ごす人)を懲罰(ちょうばつ=こらしめのために罰を加えること)するよう倉賀野長左衛門(くらがの さえもん)に命じました。兼続、堀立川(ほったてがわ=現在の山形県米川市春日)を開削(かいさく=土地を切り開いて道路や運河を作ること)しました。
以上諸説あり。