ここでは、1601年~1603年(徳川家康が江戸幕府を開く)までに、直江兼続(なおえ かねつぐ)が、たずさわったことを勉強します。
1601年(慶長(けいちょう)六年)7月、兼続(かねつぐ)、景勝(かげかつ)に従って若松城(わかまつ じょう現在の福島県会津若松市追手町(ふくしま あいずわかまつし おいてまち)にあった城)を」出発し、同月、兼続、景勝に従って伏見邸に入りました。これよりさき、景勝、北庄城(きたのしょうじょう=現在の福井県福井市中央(ふくいけん ふくいし ちゅうおう)一丁目)主・結城秀康(ゆうき ひでやす)を頼って家康(いえやす)に罪をあやまりました。8月、景勝、30万石(伊達(だて)・信夫(しのぶ)・置賜(おきたまぐん)三郡)に減封(げんぽう=武士の所領や城・屋敷の一部を削減すること)を命じ、米沢城(よねざわ じょう=山形県米沢市丸の内(やまがたけん よねざわし まるのうち)にあった城)に移るよう命じました。8月、兼続、安田能元(やすだ よしもと)・水原親憲(すいばら ちかのり)・岩井信能(いわい のぶよし)を新地へ移転させました。家臣(かしん=家来)の知行地(ちぎょうち=大名が家臣に与えた土地)が三分の一になる君令(君主だけが発動できる効果)を平林正恒(ひらはやし まさつね)に伝えました。10月、兼続、京都において、連句会(最初の五・七・五(長句)に対して、その情景(じょうけい=人の心を動かす風景や場面)から次の脇句(わきく)の七・七(短句)を想像する連想する会)を開催しました。11月、六千人の家臣をつれて米沢城(三十万石)に入りました。12月、米沢直江邸で和漢連句会(連句の一種。和句(五七五または七七)と漢句(五言または七言)をまじえて付け連ねるもの)を開催(かいさい=会を行うこと)しました。景勝も出席しました。
1602年(慶長七年)2月、兼続、亀岡村大聖寺(かめおかむら だいしょうじ=現在の山形県東置賜郡にある寺院)で詩歌会(しいかかい=漢詩と和歌を行う会)を開催しました。9月、樋口兼豊(ひぐち かねとよ)が亡くなり、法号(ほうごう=僧が死者に与える名)は台代翁道高庵でした。10月、兼続、景勝の名代(みょうだい=ある人の代わりを務めること)として江戸(えど=現在の東京都)登城(とじょう=城に参上すること)しました。
1603年(慶長八年)2月、徳川家康(とくがわ いえやす)、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=朝廷の令外官の一つ)となり、江戸幕府(ばくふ=武家による政治組織)を開きました。2月、兼続、佐藤新左衛門(さとう しんざえもん)の功(こう=てがら)を賞(表彰の一種)し、百石(ひゃっこく=石は容積の単位)を給与(金品などをあてがい与えること)しました。3月7日、景勝、兼続に本多正信(ほんだ まさのぶ)を通じて秀忠(ひでただ)に家康将軍宣下(いえやす しょうぐんせんげ=朝廷の命令を下に伝え、征夷大将軍を任命すること)の祝賀(しゅくが=喜び祝うこと)をのべました。同日、本多正信は、答謝(とうしゃ=回答を感謝すること)しました。
以上諸説あり。