直江兼続(17/28)(1594年)

ここでは、1594年に、直江兼続(なおえ かねつぐ)がたずさわったことを勉強します。

1594年(文禄(ぶんろく)元年)3月、兼続(かねつぐ)、景勝(かげかつ)に従って、上洛(じょうらく=京都に向かうこと)するため、越後府中(えちご ふちゅう=現在の新潟県上越市五智(にいがたけん じょうえつし ごち))を出発しました。秀吉(ひでよし)の命によって、伏見城(ふしみ じょう=現在の京都府京都市伏見区桃山(きょうとふ きょうとし ふしみく ももやま)にあった城)を堀で囲み城郭を構造(土木工事)することに従事(じゅうじ=仕事にたずさわること)しました。7月、兼続、田川郡大宝寺(現在の山形県にあった郡・地名)の代官下次忠吉をして湯殿(ゆどの=ふろば。山形県鶴岡市)・羽黒両山(はぐろりょうざん=山形県鶴岡市にある山)に立願(りつがん=神や仏に願がんをかけること)の施物(せもつ=僧侶や貧しい人に与えるほどこしの品物)をおくりました。同月、兼続、出羽(では)の羽黒山(はぐろやま)に祈願(きがん=ねがいがけ)の覚書を養蔵坊へ送りました。8月、兼続、庄内(しょうだい)2郡の法度15カ条を定め、立岩喜兵衛(たていわ きへい)志駄修理亮(しだしゅうりのすけ)に支配させました。同月、景勝、従三位(正四位の上。正三位の下)、権中納言(官位の一)にすすみ、清華(せいが=英雄家)のあるものを基準にしてそれにならい従いました。9月、景勝、家臣団(かしんだん=将軍や大名など武家に仕える家臣層・家臣の集団)の知行定納高を調べ、「文禄三年定納員数目録(ぶんろく さんねん ていのう いんすう もくろく)」を作成しました。兼続は知行高(ちぎょうだか=知行の石高)53,217石、公役人数(官府から人民に課せられた兵役)3,193人であった。10月、大谷刑部少輔吉継(おおたに けいぶ しょうさ よしつぐ)、兼続に書状を送り病気見舞を謝すりました。同月、太閤秀吉(たいこう ひでよし)、景勝の聚楽邸(じゅらくてい=現在の京都府京都市上京区一条堀川にある城)によりました。兼続は、太刀(たち=日本刀のうち刃長が約2尺(約60cm)以上)一腰(ひとこし=一ふりの腰の刀)、馬代銀子(うまだい ぎんすう)200枚、小袖(こそで=日本の伝統的衣装の一つ)10領を献上(けんじょう=さしあげること)し、この年、兼続の嫡男(ちゃくなん=あととり)平八景明(へいはち かげあき)誕生しました。幼名(ようにょう=おさないときの名)は竹松(しょうちくまる)でした。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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