ここでは、千利休(せんのりきゅう)が切腹(せっぷく=腹部を短刀で切り裂いて自殺)する年、秀吉(ひでよし)が豊臣秀次に関白をゆずる年(1591年)の直江兼続の行動を勉強します。
1591年(天正(てんしょう)十九年)1月24日、兼続(かねつぐ)、甘粕景綱(あまかす かげつぐ)家臣(かしん=けらい)中山三喜之丞(なかやま みきのじょう)等の大宝寺(たいほうじ=現在の山形県鶴岡市)一揆(いっき=幕府などに反抗し、地侍・農民・信徒らが起こした暴動)討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗する者を討ち滅ぼすこと)の功(こう=てがら)を賞(しょう=ほめたたえる)し、景勝(かげかつ)からの太刀(たち=刀のうち、60cm以上のもの)を与げました(あげました=自分の物を他人にあげること)。閏1月6日、兼続、勧修寺晴豊(かじゅうじ はるとよ)邸(てい=大きくてりっぱな家)での茶湯(ちゃとう=日本伝統の湯を沸かし、茶をたて、茶を振る舞う行為)に招かれました。2月17日、兼続、大森(おおもり)の番将・色部長真(いろべ ながざね)に大森城(おおもり じょう=現在の秋田県横田市にあった城)を小野寺義道(おのでら よしみち)の弟・康道(やすみち)に交附(こうふ=国などが金や品物を渡すこと)するよう命じました。3月7日、兼続、上洛(京都に向かうこと)し、細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)等と連句(れんく=五・七・五の長句に対して、その情景から次の脇句(わきく=七・七の短句) を想像する連想ごっこ)を楽しみました。4月、兼続、藤島一揆の残党(ざんとう=戦いに敗れて残ったものたち)を討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗する者を討ち滅ぼすこと)し、大宝寺城(だいほうじじょう=現在の山形県鶴岡市馬場町にあった城)を修築(しゅうちく=修理・修復すること)しました。5月、兼続が、東禅寺(とうぜんじ)を巡視(じゅんし=見回ること)しました。6月6日、兼続、大宝寺城在番衆(城主の留守中に代わって城を管理する者をたすけて城の門の上に高くつくったやぐらなどを守るもの)に勘忍分(武家で、客分(客として扱うこと)の者や討ち死にした家来の遺族などに給与(官から受ける手当。扶持米(ふちまい=米であたえる給与)。給料。))を与えました。11月18日、兼続、来年、景勝が朝鮮(現在の朝鮮半島)へ出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)するため春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市にあった山城)留守将藤田能登守(ふじた のとのかみ)・安田上総介(やすだ かずさのすけ)と協議(きょうぎ=集まって相談すること)るよう庄内(しょうない=山形県の一部)在留(ある期間、その土地に滞在すること)の諸将(佐藤勘助(さとう かんすけ)・登坂官兵衛(とさか かんべえ))に命じました。
以上諸説あり。