ここでは、秀吉が九州攻めをおこなう年(1587年)を勉強します。
1587年(天正(てんしょう)十五年)1月16日、兼続(かねつぐ)、窪田源右衛門(くぼた げんうえもん)に吉田村(よしたむら)三ケ村(さんがむら)の内二ケ所の諸役(しょやく=いろいろの雑税)を免除(めんじょ=義務・役目などを免じること)しました。2月27日、木村清久(きむら きよひさ)が、秀吉(ひでよし)の九州征伐(きゅうしゅう とうばつ=九州をせめうつこと)が3月1日と決定したことを兼続に知らせました。5月1日、新発田(しばた=現在の新潟県新発田市)攻めのため、景勝(かげかつ)と兼続が出陣(しゅつじん=戦争に出向くこと)しました。同月7日、新潟(にいがた)に着陣(ちゃくじん=陣地に到着すること)しました。同月13日、水原城(すいばらじょう=現在の新潟県阿賀野詩市外城町にある城)を攻略(こうりゃく=敵を攻めて勝利をすること)10月23日、兼続が、五十公野道如斎(いじみの どうじょさい)の五十公野城(いじみのじょう=現在の新潟県新発田市五十公野にあった城)を攻略し、道如斎夫妻は自刃(じじん=刃物を使って自らの生命を絶つこと)しました。10月28日、景勝、新発田城を攻略し、新発田重家(しばた しげいえ)は自刃しました。同日、景勝、新発田重家討伐(とうばつ=軍隊を送り、抵抗する者を討ち滅ぼすこと)を秀吉に知らせ、九州討伐(島津義久降伏(しまづ よしひさ こうふく=降参))と聚楽第(じゅらくだい=現在の京都市上京区にあった城)完成をいわうため、兼続の弟・大国実頼(おおくに さねより)を上洛させました(京都に向かわせました)。兼続も聚楽第の完成をいわいました。11月、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市にあった山城)に帰城(自分の城に帰ること)しました。11月16日、景勝、新発田重家討伐を伊達政宗(だて まさむね)に知らせました。この日、政宗が、兼続に書状を送り、喜び祝いました。11月22日、関白秀吉、新発田重家討滅を祝賀し、兼続に朱印状を下しました。11月23日、兼続の弟・大国実頼、青竜寺(せいりゅうじ=現在の新潟県新潟市石瀬にある寺院)に安堵状(あんどじょう=大名などの主君が家臣の武士に対して、所領・所職などの知行の安堵(保証)の際に出された文書)を下しました。
以上諸説あり。