直江兼続(7/28)(1578年~1580年)

ここでは、上杉謙信が、春日山城(かすがやま じょう=新潟県上越市にあった山城)で亡くなった年(1578年)から、樋口与六兼続(ひぐち よろく かねつぐ=直江兼続)が、佐藤庄左衛門(さとう しょうざえもん)と皆川式部丞(みながわしきぶのじょう)に御館の乱の論功行賞として知行状(ちぎょうじょう=主君から家臣に対して土地を与えることを記した文書)を交付(こうふ)した年(1580年)までを勉強します。

1578年(天正(てんしょう)六年)3月13日、上杉謙信が、春日山城(かすがやま じょう=新潟県上越市にあった山城)で亡くなりました。謙信死去により、養子景勝(かげかつ)と景虎(かげとら)との間に家督(かとく=あととり)相続(そうぞく=先代に代わって、家名などを受け継ぐこと)をめぐって御館の乱(おたてのらん=景勝と景虎との間で起こった越後のお家騒動)がおきました。6月17日、景勝、赤沢(あかさわ=現在の新潟県上越市吉川区赤沢)へ救援(きゅうえん=他人のこんなんを救い助けること)の主将として樋口与三右衛門兼重(ひぐち よそうえもん かねしげ)に鉄砲2梃(てっぽうにちょう)を持たせて遣わしました(つかわしました=目上の人が目下の者に対して人などを行かせる)。12月23日、景勝が、武田勝頼(たけだ かつより)の妹・菊姫(きくひめ)と婚約(結婚の約束をすること)しました。

1579年(天正七年)兼続(かねつぐ)、歳旦(さいたん=元旦)の詩を作りました。3月24日、上杉景虎、鮫ケ尾城(さめがおじょう=現在の新潟県妙高市にあった城)で自刃(刃物を使って自らの生命を絶つこと)しました。10月20日、景勝が、武田勝頼の妹・菊姫と結婚しました。

1580年(天正八年)3月2日、直江与兵尉信綱(なおえ よへえのじょう のぶつな)が、家臣・池浦喜右衛門(いけうら きえもん)と木村新助(きむら しんすけ)の軍功(ぐんこう=戦争で立てた手柄)を褒めました(ほめました)。7月17日、景勝から、御館の乱の論功行賞(ろんこうこうしょう=功績(てがら)を論じ、その程度に応じて賞を与えること)として樋口与六(ひぐち よろく=兼続)に河海(かかい=河と海)いろいろの役目を免除し船一艘(ふね いっそう)を支給されました。8月15日、樋口与六兼続(ひぐち よろく かねつぐ)が、佐藤庄左衛門(さとう しょうざえもん)と皆川式部丞(みながわしきぶのじょう)に御館の乱の論功行賞として知行状(ちぎょうじょう=主君から家臣に対して土地を与えることを記した文書)を交付(こうふ)しました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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