直江兼続(4/28)(1566年~1569年)

ここでは、足利義秋(あしかが よしあき=のちの15代将軍足利義昭)が、上杉謙信(うえすぎ けんしん)に使者を遣わし、京都の回復を要請する年(1562年)から、足利義昭が、智光院頼慶(ちこういん らいけい)を謙信に遣わし、織田信長に越・甲和議の斡旋(あっせん)を依頼したことを伝える年(1569年)までを勉強します。

1566年(永禄(えいろく)九年)3月10日、足利義秋(あしかが よしあき=のちの15代将軍足利義昭(あしかが よしあき))が、上杉謙信(うえすぎ けんしん)に使者(ししゃ=命令や依頼を受けて使いに行く者)を遣わし(つかわし= 上位者が下位者を行動させる)、京都の回復(かいふく=もとどおりにすること)を要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)しました。謙信、これを承諾(しょうだく=聞き入れること)し、花ケ崎智光院頼慶(はながさき ちこういん らいけい=のちの居多神社神官花ケ前家盛(こたじんじゃ しんかん はながさき いえもり))に遣わし贈り物をしました。義秋、答謝(とうしゃ)し、すみやかに上洛(じょうらく=地方から京都にいく)するよう要請しました。

1567年(永禄十年)9月9日、織田信長(おだ のぶなが)が、美濃井口城(みの いぐち じょう=岐阜県岐阜市(ぎふけん ぎふし)にあった城)等を攻略(こうりゃく=敵を攻めて勝利すること)し、直江景綱(なおえ かげつな)にしらせました。

1568年(永禄十一年)5月7日、謙信の生母(うみの親)虎御前(とらのごぜん)が亡くなりました。法明岩青院殿天甫輝清でした。9月8日、出羽(でわ=山形県鶴岡市馬場町にあった大宝寺城)大宝寺義増(だいほうじ よします)、武田信玄(たけだ しんげん)に応じて本庄城(ほんじょうじょう=現在の埼玉県本庄市にあった城)主・本庄繁長(ほんじょう しげなが)を支援(しえん=力をそえて助けること)したが、直江景綱を通じて謙信に和(わ=平和)を求めました。謙信、義増を許しました。10月18日、足利義昭(あしかが よしあき)、室町幕府15代将軍(むろまち ばくふ 15 だい しょうぐん)となりました。

1569年(永禄十二年)2月8日、足利義昭が、智光院頼慶を謙信に遣わし、織田信長に越・甲和議の斡旋(あっせん)を依頼したことを伝えました。2月30日、飛騨桜洞城(ひだ さくらぼら じょう=現在の岐阜県下呂市(ぎふけん げろし)にあった城)の三木良頼(みつき・よしより)、謙信と越中松倉城(まつくらじょう=現在の富山県魚津市にあった城)主・椎名康胤(しいな やすたね)との間を調停(ちょうてい=対立する双方の間に立って争いをやめさせること)しようとして直江景綱の意見を聞きました。11月5日、魚津城(うおづ じょう=富山県魚津市(とやまけん うおづし)にあった城)主・河田長親(かわだ ながちか)、居多神社神官花ケ前盛貞に宮津八幡宮(みやづはちまんぐう=現在の富山県魚津市宮津(とやまけん うおづし みやづ)にある神社)の社職(しゃしょく)をあえました。

以上諸説あり。




投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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