ここでは、1562年~1563年までに、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。
1562年(永禄(えいろく)五年)1月、織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。のちの天下人(てんかびと=天下(てんか= 国じゅうを支配するひと )と松平元康(まつだいら もとやす、1543~1616= 戦国大名。安祥松平家=あんしょう まつだいらけ)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの徳川家康(とくがわ いえやす)、のちの天下人、江戸幕府(えど ばくふ=江戸時代(安土桃山時代に続く時代)の武家政権)初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号) )が和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)しました。
1563年(永禄六年)六角氏(ろっかくし)は、承禎(じょうてい、1521~1598=南近江 (みなみおうみ=現在の滋賀県(しがけん)南部) の戦国大名。六角氏15代当主)の時代から息子の義治(よしはる、1545~1612=南近江の戦国大名。六角氏16代当主)の時代になりました。しかし義治は父と違い、家臣団(かしんだん=将軍や大名など武家に仕える家臣(かしん=けらい)の集団)に信頼(しんらい)されておらず、人望もなく、尊敬もされていませんでした。そのため義治は、家臣団にとって大きな存在であった重臣(じゅうしん=重要な職務にある家臣)「六角家の両藤(進藤氏(しんどうし)と後藤氏(ごとうし)」、中でも謹厳実直(きんげんじっちょく=きわめてまじめで正直なこと)な人柄で、たびたび手柄(てがら= 人からほめられるような立派な働き)も立て、唯一(ゆいつ=ただ一つだけでそれ以外にはないこと)義治に諫言(かんげん=目上の人に不注意などのためにおかした失敗を指摘して忠告すること)を直截(ちょくせつ=まわりくどくなく、ずばりと言うこと)する後藤賢豊(かたとよ)を日ごろから疎ましく(うとましく=いやに)思っていました。この状態に義治の側近一人が「後藤は浅井に通じているらしい」と吹き込み、義治は殺意に達してしまいました。10月、義治は、観音寺城に後藤と嫡男父子を呼びだし殺してしまいした。この事件により、後藤の味方であった家臣団が承禎、義治父子を観音寺城から追放し、観音寺城下は大騒ぎとなり、城下町は大火事となり、城からも火が出ました。長政は、このまま六角氏で混乱が続くならば、一挙(いっきょ)に攻(せ)め入るつもりでした。一方、六角家内では、賢臣といわれた蒲生賢秀(がもう たかひで、1534~1584)が家臣団と六角父子の仲裁(ちゅうさい= 対立し争っているものの間に入ってとりなし、仲直りをさせること)に入り、家督(かとく=あとつぎ)を義治から弟の義定(よしさだ、1547~1620=南近江の戦国大名。六角氏17代当主)に譲(ゆず)ることで幕引を図りました。長政は、六角氏の動揺(どうよう)は激しいとみて、愛知川四十九院(えちがわ しじゅうくいん=現在の滋賀県愛知郡愛荘町愛知川(えちぐんあいしょうちょうえちがわ)・滋賀県犬上郡豊郷町(いぬかみぐん とよさとちょう))に出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)しました。すると、永田氏(ながたし)、三上氏(みかみし)、池田氏(いけだし)などの六角氏の家臣団が長政に寝返り、さほどの合戦もないまま、これまでの伊香郡(いかぐん=琵琶湖(びわこ)の北岸一帯)、浅井郡(あさいぐん=琵琶湖の北岸一部)、坂田郡(さかたぐん=琵琶湖の北東岸)に加えて、犬上郡(いぬかみぐん=琵琶湖の東岸一部)、愛知郡(あいちぐん=琵琶湖の東岸)を手に入れ、浅井氏は長政の代で大きく変貌を遂げました(おおきくへんぼうをとげました=めざましく成長しました)。この年、信長は、美濃(みの=現在の岐阜県(ぎふけん)南部)・斎藤龍興(さいとう たつおき 、1548~1573=美濃の戦国大名。道三流斎藤家3代)攻めに失敗しており、最大の敵、斎藤龍興を滅(ほろ)ぼすためには、美濃と地続きの近江(おうみ=現在の滋賀県)・長政の存在は日ごとに大きくなっていきました。また同じころ、信長は娘の五徳(おごとく、1559~1636=徳姫(とくひめ))と家康の嫡男・竹千代(たけちよ=のちの信康(のぶやす、1559~1579))との婚約(こんやく=結婚(けっこん)の約束)を成立させ徳川との同盟(どうめい=共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること)を強固(きょうこ=かたく丈夫なさま)にしました。 同月、磯野員昌(いその かずまさ、1523~1590=浅井氏の家臣。近江国佐和山城主(おうみのくに さやまじょう=現在の滋賀県彦根市(ひこねし)にあった城のあるじ))が信長と小牧城(こまきじょう=現在の愛知県小牧市にあった城)で対面し、お市の方(おいちのかた、1547~1583=信長の妹)を信長のけらいとともに美濃を無事通りぬけ小谷城(おだにじょう=現在の滋賀県長浜市湖北町伊部(ながはまし こほくちょう いべ)にあった城)へ連れ帰りました。
以上諸説あり。