浅井長政(5/17)(1557年~1559年)

ここでは、1557年~1559年までに、浅井長政(あさい ながまさ)が、たずさわったことを勉強します。

1557年(弘治(こうじ)三年)11月、織田信長(おだ のぶなが、1534~1582=戦国大名。天下人(てんかびと= 国じゅうを支配するひと )は、弟の織田信行(のぶゆき、~1558)を清洲城(きよす=現在の愛知県清須市一場(あいちけんきよすしいちば)にあった城)に呼び寄せました。

1558年(永禄(えいろく)元年)信長は、家臣(かしん=けらい)の川尻秀隆(かわじり ひでたか、1527~1582)に信行を斬(き)り殺させました。

1559年(永禄二年)1月、新九郎(しんくろう=のちの長政)は、元服(げんぷく=男子が成人に達したことを示すための儀式(ぎしき))を果たし、六角義賢(ろっかく よしたか、1521~1598=南近江の戦国大名。六角氏15代当主(とうしゅ=その家の現在の主人))の命(めい=言いつけ)で、義賢の名前から一字を取った新九郎賢政(しんくろう たかまさ)と名乗ることになりました。そして同月下旬、義賢の重臣(じゅうしん=重要な職務にある家来(けらい))・平井定武(ひらい さだたけ)の娘を娶せられました(めあわせられました=結婚させられました)。このころの浅井家は六角氏の配下にあり、六角氏に取り込まれた政略結婚でしたが、4カ月後、長政は、祖父・浅井亮政(あさい すけまさ、1491~1542=浅井氏初代当主)の「六角を必ず打ち破るべし」という遺言(ゆいごん=亡くなった人が後代(こうだい=のちの時代)に残した言葉)から、わずか4カ月で離別(りべつ=離婚(りこん))しました。この年2月、織田信長は、初上洛(じょうらく=)し、将軍・足利義輝(あしかが よしてる、1536~1565=室町幕府第13代征夷大将軍)に拝謁(はいえつ=身分の高い人に面会すること)しました。翌月、岩倉城(いわくら じょう=現在の愛知県岩倉市下本町(いわくらし しもほんまち)にあった城)にいた織田宗家(そうけ=本家)の嫡統(ちゃくとう=家督を伝えていく本家の血筋)である織田伊勢守信賢(おだ いせのかみ のぶたか)を攻め、追放(ついほう=追い出すこと)しました。こうして信長の尾張(おわり=現在の愛知県西部)平定(へいてい=反抗する者を全部負かして、乱をしずめること)は完成に近づきました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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