毛利元就(3/6)(1523年~1541年)

ここでは、1523年~1541年までに、毛利元就(もうり もとなり)が、たずさわったことを勉強します。

1523年(大永(たいえい)三年)幸松丸(こうまつまる=元就の兄・興元(おきもと)の子。1516年に興元がなくなったときに毛利家の家督(かとく=あととり)を相続していました(そうぞくしていました=うけついでいました))が病死しました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)9歳でした。8月10日、元就が吉田郡山城(よしだこうりやまじょう=広島県安芸高田市吉田町吉田(ひろしまけん あきたかたし よしだちょう よしだ)にあった城)に入り、毛利家の家督を相続しました。安芸国(あきのくに=現在の広島県西部(ひろしまけん せいぶ))に侵入(しんにゅう=他の領土を侵(おか)して強引に入り込むこと)してきた出雲国(いずものくに=現在の島根県東部(しまねけん とうぶ))の尼子恒久(あまご つねひさ)に従い(したがい=目上の人のあとについて行動すること)、大内氏(おおうちし)と戦いました。

1524年(大永四年)謀反(むほん=君主などにそむいて兵(へい)を挙(あ)げること)を起(お)こした異母弟(いぼてい=腹違いの弟)・元綱(もとつな)を討ちました(うちました=相手を攻(せ)め滅ぼしました)。

1525年(大永五年)出雲国の尼子氏と関係(かんけい)を断ち(たち=関係を解消すること)、大内氏に属しました(ぞくしました=従いました)。

1529年(享禄(きょうろく)二年)大内氏とともに、豪族(ごうぞく=その土地に長く住み、広い土地や大きな財産を持ち、強い勢力を張る一族)・高橋氏(たかはしし)を討ち、所領(しょりょう=領有している土地)を得ました(えました=手に入れました)。

1533年(天文(てんぶん)二年)治部少輔(じぶのしょう=役所名と職階名)、右馬頭(うまのかみ=右馬寮(役人などの乗る公用の馬を養うところ)の長官。従五位上(じゅごいのじょう)相当)を命ぜられました(めいぜられました=命令されました)。

1537年(天文六年)長男・隆元(たかもと)を人質(ひとじち=約束を守るあかしとして、相手方に預けられる人)として、大内義隆(おおうち よしたか)に差し出しました。

1540年(天文九年)9月、吉田郡山城が尼子晴久(あまご はるひさ)率いる三万の大軍に包囲 (ほうい=とりかこむこと) されました(吉田郡山城の戦い)。

1541年(天文十年)10月、尼子軍を撃退(げきたい= 攻めてきた敵などを、逆に攻撃して追い払うこと )し武田信実(たけだ のぶざね)を攻めました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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