ここでは、文永寺・安養寺(ぶんえいじ・あんようじ)を甲斐法善寺(ほうぜんじ)に寄進して(1558年)から上杉輝虎(うえすぎ てるとら)の属城を支配するところ(1562年)までを勉強します。
1558年(永禄(えいろく)元年)正月、信濃文永寺(しなの ぶんえい じ=現在の長野県飯田市にある寺院)・信濃安養寺(あんよう じ=現在の長野県松本市波田三溝にある寺院)を甲斐法善寺(かい ほうぜん じ=現在の山梨県南アルプス市加賀美にある寺院)に
寄進しました(金銭や物品を寄付すること)。八月、戸隠神社(とがくし じんじゃ=現在の長野県長野市にある神社)に祈願文を納めました。十一月、将軍義輝の結問(相手を責めて厳しく問いただすこと)に答えました。
1559年(永禄二年)四月、戍兵(じゅへい=国境や砦(とりで=本城の外側に囲むようにある小さい城)などを守備する軍人)の条規を定めました(規則を決める)。
五月、晴信は出家し、信玄と名乗ることになりました。夏、武田氏の兵、越後(えちご=現在の佐渡ヶ島を除く新潟県)に侵入しました。同年夏、越後の兵、信濃(しなの=現在の長野)に侵入しました。
九月、下之郷明神(しものごう みょうじん=長野県上田市下之郷にある神社)に戦勝を祈願しました。
1560年(永禄三年)九月、信濃奥郡(しなの おくぐん=現在の長野県)に攻入るため、佐久郡松原社(さくぐん まつばらしゃ)に戦勝祈願しました。十月、北条氏康(ほうじょう うじやす)を助けるため、
加賀(かが=現在の石川県南部)・越中(えっちゅう=現在の富山県)の一向一揆(いっこういっき=浄土真宗本願寺派による暴動)の越後(佐渡ケ島を除く新潟県)侵入を本願寺顕如(ほんがんじ けんにょ=)に求めました。
1561年(永禄四年)三月、信濃軽井沢(しなの かるいざわ=現在の長野県)に出陣し、関東の形勢を見に行きました。五月、子盛信(もりのぶ=信玄の五男)に仁科(にしな)氏を、同龍芳(りゅうほう=信玄の次男)に海野(うんの)氏を相続させました。
九月、川中島の戦いで、武田信繁、戦死しました。十一月、関東出陣、北条氏康と共同作戦を討ちます。
1562年(永禄(えいろく)五年)十一月、北条氏康(ほうじょう うじやす)とともに上野(こうずけ=現在の群馬県)・武蔵(むさし=現在の東京都、埼玉県と神奈川県の一部)の上杉輝虎(うえすぎ てるとら=のちの上杉謙信)の属城を支配しました。
以上諸説あり。