ここでは、信濃佐久郡春日城を攻略するところ(1549年)から、塩田城を攻略するところ(1553年)までを勉強します。
1549年(天文(てんぶん)十八年)四月、晴信(はるのぶ)の軍、信濃佐久郡春日城(しなの さくぐん かすが じょう=現在の長野県佐久市にあった城)を攻略しました。八月、信濃佐久郡桜井山城(しなの さくぐん さくらい じょう=現在の長野県佐久市)に入りました。
九月、信濃佐久郡平原城(どうぐん ひらはら=現在の長野県佐久市にあった城)を放火しました。
1550年(天文十九年)四月、後奈良天皇宸筆若心経(ごならてんのう しんぴつ にゃしんぎょう)を甲斐浅間社(かい あさましゃ=現在の山梨県笛吹(ふえふき)市)に納めました。閏五月、
小笠原長時(おがさわら ながとき)を信濃林城(しなの はやし じょう=現在の長野県松本市にあった城)で破りました。長時(ながとき)は村上義清(むらかみ よしきよ)に頼ります。
九月、信濃砥石城(しなの といし じょう=現在の長野県上田市上野にあった城)を攻めて失敗しました。
1551年(天文二十年)五月、真田幸隆(さなだ ゆきたか)、小県郡砥石城(ちいさがたぐん といし じょう=現在の長野県上田市上野にあった城)を攻略しました。十月、佐久郡桜井山城(さくらい ぐん さくらい じょう=現在の長野県佐久市)に入る。
同月、安曇郡平瀬城(あづみぐん ひらせ じょう=現在の長野県松本市にあった城)を陥(おとしい)れました。
1552年(天文二十一年)八月、信濃安曇郡小岩獄城(しなの あづみ ぐん こいわたけ じょう=現在の長野県安曇野市にあった城)を攻略しました。十月、晴信、甲府(こうふ)から諏訪郡(すわぐん)への路次(ろじ=道筋)を作りました。
十一月、太郎義信(たろう よしのぶ)、今川義元(いまがわ よしもと)の女を娶りました。十二月、小笠原長時(おがさわら ながとき)、長尾景虎(ながお かげとら=のちの上杉謙信)に頼りました。
1553年(天文二十二年)一月、晴信・義信父子、信濃(しなの=現在の長野県)に出兵しようとしました。四月、村上義清(むらかみ よしきよ)の葛尾城(かつらお じょう=現在の長野県埴科郡坂城町)を攻略しました。
敗北した義清(よしきよ)は長尾景虎(ながお かげとら=のちの上杉謙信)に逃げました。五月、晴信の母大井氏、亡しました。
八月、小県郡和田城(ちいさがたぐん わだ じょう=現在の長野県小県郡長和町和田にあった城)と塩田城(しおた じょう=現在の長野県上田市前山)攻略しました。
同月、景虎と川中島で戦います。十月、深志城(ふかし じょう=松本城。現在の長野県松本市)に入りました。
以上諸説あり。