ここでは、1600年8月~1610年までに、本多忠勝(ほんだ ただかつ)が、たずさわったことを勉強します。
1600年(慶長(けいちょう)五年)8月、忠勝は、美濃国竹ヶ花城(みののくに たけがはなじょう=現在の岐阜県羽島市竹鼻町(ぎふけん はしまし たけはなちょう)にあった城)と美濃国岐阜城(みののくに ぎふじょう=現在の岐阜県岐阜市にあった城)の攻略(こうりゃく=攻撃(こうげき)して、うばい取ること)に参戦(さんせん=戦争に参加すること)しました。また、書状(しょじょう=手紙)による工作(こうさく=ある目的の達成のため、あらかじめ関係者に働きかけを行うこと)にも積極的(せっきょくてき=物事を進んでするさま)に参加しました。9月15日、関ケ原の合戦(せきがはらのかっせん=美濃国不破郡関ヶ原(ふわぐん せきがはら=現在の岐阜県不破郡関ヶ原町(せきがはらちょう))を戦場として行われた徳川家康(とくがわ いえやす)を大将とした東軍と毛利輝元(もうり てるもと)を総大将とし宇喜多秀家(うきた ひでいえ)・石田三成(いしだ みつなり)らを中心に結成された西軍の戦い)がありました。忠勝は、五百の手勢(てぜい=手下の兵)で九十の御首級(みしるし=うちとった敵の首)を挙(あ)げました。この戦いで、東軍が大勝しました。戦後、忠勝の戦いぶりを称(たた)える福島正則(ふくしま まさのり)に忠勝は「敵が弱すぎた」と返しました。この年、東軍に与した(くみした=力をかした)真田信幸(さなだ のぶゆき=のちの信之(のぶゆき))に協力して、西軍として関ヶ原を戦った真田昌幸・信繁(のぶしげ)父子(ふし)の助命(じょめい=命を助けること)を嘆願(たんがん=事情(じじょう)をのべて願うこと)しました。
1601年(慶長六年)この年、忠勝は、関ケ原の戦功(せんこう=戦争でたてたてがら)により、伊勢国桑名(いせのくに くわな=現在の三重県桑名市(みえけん くわなし))十万石に移封(いほう=大名などを他の領地に移すこと)され、旧領(きゅうりょう)のうち五万石は次男・忠朝(ただとも)に与えられました。またこの年、忠勝は、桑名で城郭(じょうかく=城のこと)の修築(しゅうちく= 建物を修理すること)や町割り(まちわり=町を設けるためにあき地を仕切ること)・宿場(しゅくば=五街道などの拠点となったところ)の整備(せいび=すぐ役立つように準備したり整えたりすること)に尽力(じんりょく=力をつくすこと)し、桑名藩創設(そうせつ=それまでは無い組織などをつくり出すこと)の名君(めいくん=すぐれた君主)と仰がれました(あおがれました=尊敬(そんけい)されました)。
1604年(慶長九年)この年、忠勝は、病(やまい)にかかり隠居(いんきょ=それまであった立場などから離れて、静かに暮らすこと)を申し出るが、徳川家康(とくがわ いえやす)が慰留(いりゅう=なだめて思いとどまらせること)したことで踏みとどまりました。
1607年(慶長十二年)この年、忠勝は、眼病(がんびょう=目の病気)にかかりました。
1609年(慶長十四年)6月、忠勝は、嫡男(ちゃくなん=正妻の生んだ最初の男子)・忠政(ただまさ)に家督(かとく=あとつぎ)を譲(ゆず)り隠居しました。
1610年(慶長十五年)10月18日、忠勝は、桑名で亡くなりました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)63歳でした。
以上諸説あり。