本多忠勝(5/8)(1573年~1582年)

ここでは、1573年~1582年までに、本多忠勝(ほんだ ただかつ)が、たずさわったことを勉強します。

1573年(元亀(げんき)四年)4月12日、武田信玄(たけだ しんげん)が西上(せいじょう=西へ向かうこと)の途上(とじょう=目的地に行く途中)で病死(びょうし=病気で死ぬこと)しました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)53歳でした。

1573年(天正(てんしょう)元年)9月、忠勝は、三河国長篠城(みかわのくに ながしのじょう=現在の愛知県新城市長篠(あいちけん しんしろし ながしの)にあった城)の攻略(こうりゃく=攻めてうばい取ること)に参加しました。

1574年(天正二年)6月、武田勝頼(たけだ かつより=武田信玄の四男)が、遠江国高天神城(とおとうみのくに たかてんじんじょう=現在の静岡県掛川市上土方・下土方(しずおかけん かけがわし かみひじかた・しもひじかた)にあった城)を落としました(おとしました=せめて打ちやぶりました)。

1575年(天正三年)5月21日、忠勝は、長篠・設楽原の合戦(ながしの・したらがはら=長篠城をめぐっておこった織田(おだ)・徳川(とくがわ)軍と武田軍との戦い)に参加しました。

1579年(天正七年)9月、徳川家康(いえやす)が、北条氏(ほうじょうし)と同盟(どうめい=共通の目的を達成するため、同じ行動をとることを約束すること)しました。

1580年(天正八年)9月、忠勝は、高天神城攻めに参加しました。

1581年(天正九年)3月に高天神城は落城(らくじょう=城が攻め落とされること)しました。

1582年(天正十年)2月、家康が、織田信長(のぶなが)と共同で武田領に侵攻(しんこう=攻め入ること)しました。4月、家康、信長から駿河(するが=現在の静岡県辺り)を与えられました。6月2日、本能寺の変(ほんのうじのへん=京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣(かしん=けらい)・明智光秀(あけち みつひで)が謀反(むほん=仕えている殿様にそむくこと)を起こして襲撃(しゅうげき=おそいかかること)した事件)で信長が自刃(じじん=刀物で自分の生命を絶つこと)しました。享年49歳でした。堺(さかい=現在の大阪府の中部辺り)に滞在(たいざい=よそに行って、ある期間そこにとどまること)していた家康一行(いっこう=いっしょに行く人々)は、忠勝の進言(しんげん=目上の者に対して意見を申し述べること)により伊賀(いが=現在の三重県の西部辺り)越え(ごえ)を敢行(かんこう=無理を承知で思い切って行うこと)し、無事に三河国(みかわのくに=現在の愛知県東部)へ帰還しました(きかんしました=帰りました)。6月13日、山崎の合戦(やまさきのかっせん=現在の大阪府三島郡島本町山崎(おおさかふ みしまぐん しまもとちょう やまざき)、京都府乙訓郡大山崎町(きょうとふ おとくにぐん おおやまざきちょう)でおこった羽柴(はしば)軍と明智軍との戦い)にて、羽柴秀吉(ひでよし=のちの豊臣秀吉(とよとみ ひでよし))、明智光秀を討ちました(うちました=打ち倒しました)。7月、家康は、織田軍の撤退(てったい=ひきはらうこと)により無主(むしゅ=所有者がいなくなること)となった甲斐国(かいのくに=現在の山梨県(やまなしけん))・信濃国(しなのくに=現在の長野県(ながのけん))に侵攻し、上野国(こうずけのくに=現在の群馬県(ぐんまけん))・信濃国に侵攻した北条軍と対立(たいりつ=二つのものが反対の立場に立つこと)しました。10月、家康が、北条氏と和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)し、甲斐国・信濃国の大部分を領有(りょうゆう=自分のものとしてもつこと)するになりました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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