本多忠勝(4/8)(1568年~1572年)

ここでは、1568年~1572年までに、本多忠勝(ほんだ ただかつ)が、たずさわったことを勉強します。

1568年(永禄(えいろく)十一年)12月、徳川家康(とくがわ いえやす)は、武田信玄(たけだ しんげん)の駿河国(するがのくに=現在の静岡県(しずおかけん)中部)進攻(しんこう=軍を進め攻め込むこと)に呼応(こおう=呼びかけに答えること)して、遠江国(とおとうみのくに=現在の静岡県西部)に進攻しました。遠江領有(りょうゆう=自分のものとしてもつこと)をめぐって、信玄と対立(たいりつ=二つのものが反対の立場に立つこと)しました。

1569年(永禄十二年)5月、家康は、北条氏康(ほうじょう うじやす)と結んで、遠江国に侵攻(しんこう=攻め入ること)してきた武田軍を退けました(しりぞけました=あとへ引かせました)。

1570年(永禄十三年)家康は、岡崎城(おかざきじょう=現在の愛知県岡崎市康生町(こうせいちょう)にあった城)から遠江国浜松城(はままつじょう=現在の静岡県浜松市中区(はままつし なかく)にある城)に本拠(ほんきょ=活動の主なよりどころ)を移しました。

1570年(元亀(げんき)元年)6月28日、姉川の合戦(あねがわのかっせん=現在の滋賀県長浜市野村町(しがけん ながはまし のむらちょう)付近でおこった織田(おだ)・徳川連合軍と浅井(あざい)・朝倉(あさくら)連合軍との戦い)がありました。忠勝は朝倉軍一万に対して一騎駆け(いっきがけ=一人、または指揮官とその馬廻りが、敵陣に乗り込むため先陣に立つこと)を敢行(かんこう=思い切って行うこと)しました。織田信長(のぶなが)に「家康が劉備(りゅうび=中国の三国時代の蜀漢(しょくかん=劉備が建てた国)の初代皇帝)なら忠勝は張飛(ちょうひ=劉備に仕えた武将)」と称えられました(たたえられました=すぐれているとほめられました)。

1572年(元亀三年)10月3日、武田信玄の上洛(じょうらく=京都に行くこと)軍が甲府(こうふ=現在の山梨県甲府市(やまなしけん こうふし))を進発(しんぱつ=出発すること)しました。10月13日、一言坂の戦い(ひとことざかのたたかい=現在の静岡県磐田市一言(わたし ひとこと)でおこった武田軍と徳川軍との戦い)がありました。偵察(ていさつ=敵の様子をこっそり探ること)に先行(せんこう)した忠勝は、武田の先発(せんぱつ=先に出発すること)隊と交戦(こうせん=戦いをまじえること)しました。忠勝は、家康の本隊を逃がすため、しんがり(=退却する軍列の最後尾にあって、敵の追撃を防ぐこと。また、その部隊)となって奮戦(ふんせん=一生懸命に戦うこと)し、無事に本隊を逃がしました。12月22日、三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい=現在の静岡県浜松市北区三方原町(きたく みかたはらちょう)でおこった武田軍と徳川・織田軍との戦い)がありました。忠勝は、しんがりとして奮戦し、家康を逃がしました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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