ここでは、1573年に、朝倉義景(あさくら よしかげ)が、たずさわったことを勉強します。
1573年(元亀(げっき)四年)2月6日、顕如(けんにょ=石山本願寺(いしやま ほんがんじ=現在の大阪城本丸の場所にあった寺院)住職)が、義景に書状(しょじょう=手紙)を送り、義景の前年末の帰国を責め、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県(しがけん))への出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)を要請(ようせい=必要だとして、強く願い求めること)しました。同月26日、足利義昭(あしかが よしあき=室町幕府(むろまち ばくふ)第15代の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府の長))、義景・浅井長政(あざい ながまさ)・武田信玄(たけだ しんげん)と謀り(はかり=相手をだます計画)、織田信長(おだ のぶなが)を討(う)つべく、西近江に兵(へい=戦いにかかわる者)を挙(あ)げさせました。信長、和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)を求めながら、柴田勝家(しばた かついえ)・明智光秀(あけち みつひで)を遣って(やって=ある目的を与えて、人を先方へ行かせること)、西近江を平定(へいてい=世の中が平和になること)させました。3月7日、義昭、信長と袂を分かちました(たもとをわかちました=行動を別にしました)。4月12日、信玄が、信濃国駒場(しなののくに こまば=現在の長野県下伊那郡阿智村(ながのけんしもいなぐんあちむら))で病死しました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)53歳でした。5月、義昭がふたたび信長に叛旗(はんき=謀反(むほん=政治を行う者に反逆すること)を起こして立てる旗)を翻しました(はんきしました=それまでの態度と反対のことをしました)。7月17日、義景、国中の軍勢(ぐんぜい=軍隊)を率(ひき)いて出陣しました。翌日、信長、義昭を山城国(やましろのくに=現在の京都府(きょうとふ)南部)の槇島城(まきしまじょう=現在の京都府宇治市槇島町(うじし まきしまちょう)にあった城)に攻め、開城(かいじょう=降伏して城を敵に明け渡すこと)させました。信長、義昭を追放(ついほう=おいだすこと)し、室町幕府がほろびました。8月10日、義景、近江国の地蔵山(じぞうやま=現在の滋賀県長浜市(しがけん ながはまし))に陣を張りました(じんをはりました=戦いに当たって、陣形をととのえて戦いに備えました)。織田軍、朝倉方の大獄城(おおづくじょう=現在の滋賀県長浜市にあった城)と丁野城(よおのじょう=現在の滋賀県長浜市にあった城)を落としました。同月12日、義景、地蔵山の陣を引きました。同月13日、朝倉軍、信長軍の追撃(ついげき=逃げる敵を追いかけて攻撃すること)を受け、刀禰坂(とねざか=現在の福井県敦賀市(つるがし))で大敗しました。同月16日、義景、本拠地(ほんきょち)の一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町(きどのうちちょう))を捨てて大野(おおの=現在の福井県大野市)に逃(のが)れ、朝倉景鏡(あさくら かげあきら)・平泉寺(へいせんじ=現在の福井県勝山市平泉寺町平泉寺(かつやまし へいせんじちょう へいせんじ)にある寺院)門徒(もんと=浄土真宗(じょうどしんしゅう)を信仰(しんこう)する人)の援護(えんご=困っている人を助け守ること)を頼りました。同月18日、信長の先鋒(せんぽう=部隊の先頭を切って進むもの)、一乗谷に入り、火を放ちました。同月20日、義景は、景鏡に裏切(うらぎ)られ、六坊賢松寺(ろくぼうけんしょうじ=現在の福井県大野市にある寺院)で自刃(じじん=刀物で自分の生命を絶つこと)しました。享年41歳、一族も織田方に殺され、朝倉氏はほろびました。
以上諸説あり。