
朝倉氏(あさくらし)は、越前(えちぜん=現在の福井県(ふくいけん)北部)で古くから栄え、地元の文化を築いてきた名門で、朝倉義景(あさくら よしかげ)は朝倉家十一代の当主(とうしゅ =その家の主人 )でした。 1565年、足利義昭(あしかが よしあき)が頼ってくると、義景は迎(むか)え入れました。義昭は将軍として京都へもどることを望んだが、地元を支配することで満足していた義景は、京都へ軍を進める気はありませんでした。 義景の元を去った義昭は、織田信長(おだ のぶなが)とともに京都へ行き、15代将軍となりました。信長は義景に、自分に従うように求めたが、義景はこれを無視したので、信長から攻撃(こうげき)を受けました。近江(おうみ=現在の滋賀県(しがけん))の浅井長政(あざい ながまさ)と協力して、信長を追いつめたが、姉川の戦い(あねかわ=近江浅井郡姉川河原(おうみ あさいぐん あねかわ かわら=現在の滋賀県長浜市野村町(しがけんながはましのむらちょう)付近)で行われた織田徳川軍と浅井朝倉軍との戦い)では、信長に敗れてしましました。 その後、浅井長政が信長を攻(せ)められたときは、義景は越前から出撃(しゅつげき=敵を攻撃するために陣地(じんち)を出ること)してたすけに向いましたが、信長の激しい攻撃(こうげき)にあって、越前へにげ帰りました。しかし、家臣(かしん=けらい)の裏切りにあい、義景は自殺しました。
ここでは、朝倉義景(あさくら よしかげ)が生まれた1533年~1552年を勉強します。
1533年(天文(てんぶん)二年)9月24日、朝倉義景は、朝倉氏十代当主・隆景(たかかげ)の子として、越前国に生まれました。通称(つうしょう=一般に通用している名前)は孫次郎(まごじろう)でした。母は若狭国(わかさのくに=現在の福井県西部)武田氏(たけだし)の娘で、広徳院(こうとくいん)と伝わっています。
1548年(天文十七年)3月22日、父・隆景が急死しました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)56歳でした。義景は、朝倉氏十一代当主となりました。初名(しょめい=はじめの名前)は延景(のぶかげ)でした。
1552年(天文二十一年)6月14日、越後国(えちごのくに=現在の新潟県(にいがたけん))の守護代(しゅごだい= 守護の一門やその傍流( ぼうりゅう=主流からはずれた系統)、あるいは重臣(じゅうじん=重要な職務にあるけらい )・長尾景虎(ながお かげとら=のちの上杉謙信(うえすぎ けんしん))、朝倉教景(あさくら のりかげ=宗滴(そうてき))に友好(ゆうこう=友人としての親しい交わり)の書状(しょじょう=手紙)を送りました。教景は、これに返事を出しました。同月16日、室町幕府(むろまち ばくふ)十三代将軍・足利義藤(あしかが よしふじ=のちの義輝(よしてる))、延景に偏諱(へんき=二字以上の名の中の一字)を与えて義景と改名(かいめい=名前を変えること)させ、左衛門督(さえもんのかみ=左衛門府(古代日本における官庁及び官人組織)の長官。位階(地位)は正五位上相当、従四位下の下、正五位下の上)に任じました(にんじました= つかせました)。
以上所説あり。