朝倉義景(6/8)(1570年)

ここでは、1570年に、朝倉義景(あさくら よしかげ)が、たずさわったことを勉強します。

1570年(永禄(えいろく)十三年)4月20日、織田信長(おだ のぶなが)が、義景を討つ(うつ=打ち倒す)べく、京都(きょうと)を進発(しんぱつ=出発)して若狭国(わかさのくに=現在の福井県(ふくいけん)南部から敦賀市(つるがし)を除いた部分)に入りました。4月23日に永禄から元亀(げんき)へ改元(かいげん=元号が変更すること)しました。

1570年(元亀元年)4月25日、天筒山城(てづつやまじょう=現在の福井県敦賀市天筒町(てづつちょう)にあった城)と金ヶ崎城(かねがさきじょう=現在の福井県敦賀市金ヶ崎町(かねがさきちょう)にあった城)が織田・徳川(とくがわ)連合軍によって落とされました。同月30日、浅井長政(あざい ながまさ)と六角義賢(とっかく よしかた)が挙兵(きょへい=兵を集めて戦いを起こすこと)し、織田・徳川連合軍は朝倉軍と浅井軍によって挟み討ち(はさみうち)の危機(きき)に陥り(おちいり=相手の策略に、はまること)、信長は、越前国(えちぜんのくに=現在の福井県北部)から逃れ、京都に帰りました(金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち))。6月21日、信長が、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県(しがけん))小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町(ながはまし こほくちょう)にあった城)と横山城(よこやまじょう=現在の滋賀県長浜市石田町(いしだちょう)にあった城)を攻(せ)めました。6月28日、長政が朝倉景健(あさくら かげたけ)と共に横山城を救うため出陣(しゅつじん=戦場へ向かうこと)しました。朝倉・浅井連合軍は、姉川(あねがわ=現在の滋賀県長浜市)で織田・徳川連合軍と戦いました。9月12日、顕如(けんにょ)、三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸(みよし ながゆき)・三好宗渭(みよし まさやす)・岩成友通(いわなり ともみち)の三人)と謀り(はかり=計画し)、信長に対抗して挙兵しました。また、諸国の門徒(もんと=浄土真宗(じょうどしんしゅう)を信仰(しんこう)する人)に檄を飛ばし(げきをとばし=自分の主張や考えを、広く人々に知らせて同意を求めること)、挙兵を命じました。同月20日、義景、長政と協働(きょうどう=同じ目的のために、協力して働くこと)し、南近江の織田軍を奇襲(きしゅう=不意をついて敵をせめること)しました。宇佐山城(うさやまじょう=現在の滋賀県大津市(おおつし))を攻め、織田信治(おだ のぶはる)・森可成(もり よしなり)らを討ち死にさせました。同月23日、信長が近江国坂本(おうみのくに さかもと=現在の滋賀県大津市下阪本(しもさかもと))に出兵(しゅっぺい=兵を出すこと)し、朝倉・浅井連合軍と対峙(たいじ=対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいること)しました。11月26日、朝倉・浅井連合軍、近江国堅田(おうみのくに かたた=現在の滋賀県大津市北部)で、織田軍と合戦しました。12月14日、義景と長政は、信長と和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)し、兵を引きました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA