朝倉義景(2/8)(1555年~1562年)

ここでは、1555年~1562年までに、朝倉義景(あさくら よしかげ)が、たずさわったことを勉強します。

1555年(天文(てんぶん)二十四年)7月21日、教景(のりかげ=朝倉氏五代目当主(とうしゅ=その家の主人))、加賀国(かがのくに=現在の石川県(いしかわけん)南部)に出陣(しゅつじん=戦いに行くこと)しました。9月8日、教景、陣中(じんちゅう=戦いのさなか)で病(やまい=病気)にかかり、死去(人が死ぬこと)しました。享年(きょうねん=死んだ時の年齢)79歳でした。代わりに、同族(どうぞく=同じ血のつながりのもの)の朝倉景隆(あさくら かげたか)・景健(かげたけ)親子が出陣しました。

1556年(弘治(こうじ)二年)4月21日、義景、室町幕府(むろまちばくふ)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府(武家の政権)の長)第十三代将軍・足利義輝(あしかが よしてる)の斡旋(あっせん=間に入って、あちらとこちらをうまく取り持つこと)で、加賀国の一揆(いっき=幕府や守護大名(しゅごだいみょう=職の一つで、地方を支配するために置かれた役人)に対する地侍(じざむらい=侍身分の一種)・農民・信徒(しんと=ある宗教の信者)たちの結合(けつごう=二つ以上のものが結びついて一つになること))軍と和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)し、加賀国から兵を引きました。

1559年(永禄(えいろく)二年)11月9日、義景、従四位下(じゅしいのげ=地位の一つ、従四位上の下、正五位上の上)に叙せられました(じょせられました=さずけられました)。

1561年(永禄四年)4月6日、義景、棗庄大窪浜(なつめのしょうおおくぼのはま=現在の福井県福井市(ふくいけん ふくいし))で犬追物(いぬおうもの=馬上から犬を標的として弓を射てその技能を競う武芸)を催しました(もよおしました=かいさいしました)。

1562年(永禄五年)8月21日、義景、大覚寺義俊(だいかくじ ぎしゅん)・四辻季遠(よつつじ すえとお)・飛鳥井雅教(あすかい まさのり)らを一乗谷(いちじょうだに=現在の福井県福井市)の安波賀河原(あばかかわら)にもてなし、曲水の宴(きょくすいえん=宮中や貴族の屋敷で行われていた年中行事の一。庭園の曲水(曲がりくねって流れる小川)に沿って参会者が座り、上流から流される杯(さかずき=酒を飲むのに使う小さな容器)が自分の前を通り過ぎないうちに詩歌をよみ、杯を手に取って酒を飲んでから杯を次へ流すという遊び)を催しました。このころ、義景の長男・阿君丸(くまぎみまる)が生まれました。

以上諸説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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