斎藤道三(10/10)(1553年~1556年)

ここでは、1553年~1556年・道三が亡くなるまでを勉強します。

1553年(天文二十二年) 4月、斎藤新九郎利政(さいとう しんくろう としまさ=のちの道三)は、織田信長(おだ のぶなが※10)と尾張国(おわりのくに=現在の愛知県(あいちけん)西部)の正徳寺(しょうとくじ=現在の愛知県一宮市(あいちけん いちのみやし)にあった寺院)で会見し(かいけん し=ふだんは離れている人が場所を定めて、世の中におおやけにして、会い、物事を談じあい(だんじあい=話しあい))ました。

1554年(天文二十三年) この年、新九郎利政は、家督(かとく=家を相続する(そうぞくする=うけつぐ)こと。一族の長)を長男・義龍(よしたつ※3)に譲(ゆず)り、稲葉山城(いなばやま じょう=現在の岐阜県岐阜市(ぎふけん ぎふし)の金華山(きんかざん)にあった城)を明け渡し、入道(にゅうどう=在俗(ざいぞく=出家しない(しゅっけしない=家を出て仏門に入る(ぶつもんにはいる=お坊さんになる)ことをしない)で俗人(ぞくにん=一般の人)のままでいること)のまま剃髪(ていはつ=髪を剃(そ)ること)し、僧衣(そうい=お坊さんが着る衣服)をつけ仏道(ぶどう=仏(ほとけ=お釈迦さま)が説いた道)に入った人)して道三と号(ごう=本名のほかにつけた名と)し、城下に隠居(いんきょ=家督をゆずり、定職(ていしょく=きまった職業)をはなれて、閑居する(かんきょする=世俗(せぞく=世の中)を離れて静かに暮らす)こと)しました。しかし、道三は、信長の駿河(するが=現在の静岡県(しずおかけん)中部・北東部(大井川(おおいがわ)以東))今川(いまがわ)勢との戦いに援兵(えんぺい=応援のための兵)を送る命令をするなど、美濃の実権は手放(てばな)しませんでした。義龍は、美濃の実権を譲(ゆず)らない父に謀叛(むほん=時の政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策を実行し、統治機構を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)をおこなう人にさからって兵を起こすこと)を決意(けつい し=自分の意志をはっきりと決め)ました。

1555年(弘治(こうじ)元年) 12月24日、義龍は、まず道三が御執心(ごしゅうしん=深く思いをかけることをひやかしの意をこめていう語)であった義龍の弟、孫四郎(ひこしろう※4)、喜平次(きへいじ※5)を稲葉山城に呼び出して殺害しました。道三は、その知らせを聞き、館(やかた)から抜け出し大桑城(おおが じょう=現在の岐阜県山県市(やまがたし)にあった城)に逃れました。そして、信長に「わが亡(な)きあとは美濃を婿殿(むこどの=娘の夫として迎える男)に譲(ゆず)る」こと記した書状(しょじょう=手紙)を出しました。

1556年(弘治二年) 4月、西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう=安藤守就(あんどう もりなり※11)・稲葉良道(いなば よしみち※12)・氏家直元(うじいえ なおもと※13))や土岐の旧臣(きゅうじん=古くからつえているけらい)など、明智以外の国衆(くにしゅう=守護大名の領地に土着して(どちゃく して=その土地に古くから住みつい)いた地侍(じざむらい=その土地で勢力のあるさむらい)や有力農民(ゆうりょく のうみん=耕作(こうさく=田畑をたがやし作物を作ること)する農民から、年貢(ねんぐ=毎年、領主におさめる貢租(こうそ=みつぎもの))などを集め、領主(りょうしゅ=領国を支配している人)へ納めるひと))の大半が義龍につき約二万、それに対し道三は約三千での戦いでした(長良川(ながらがわ)の戦い)。明智光秀(みつひで※9)は道三に「落ち延び(おちのび=つかまらずに遠くへ逃げ)、義龍か信長かどちらか勝った方に仕(つか)え、息子たちを頼(たの)む」と告(つ)げ、参戦(さんせん=戦争に参加)しませんでした。4月20日、道三は義龍に敗北し首をはねられました。享年、六十三でした。尚、信長は出陣し(しゅつじん=戦争に向い)ましたが、道三の死を知って、途中で撤退し(てったい し=ひきはらい)ました。

以降、義龍は美濃守護になり、織田信長の猛攻(もうこう=猛烈(もうれつ)な攻撃)をしのいで(しのいで=たえしのび)美濃を守り続けましたが、五年後、病死し、義龍の子・龍興(たつおき※7)が継ぐが、信長に美濃を追い出され、信長、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし※10-1)、徳川家康(とくがわ いえやす※10-2)と「戦乱(せんらん=戦いが起こって国が乱れること)を終わらせて平和な世の中にしたい」との道三の父の志(こころざし=こうしようと心に決めたこと)はつながっていきました。

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※1 とき よりなり、1502~1582=妻は六角定頼(ろっかく さだより※1-1)の娘。側室は深芳野(1-2)
※1-1 ろっかく さだより、1495~1552=武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。近江(おうみ=現在の滋賀県(しがけん))守護。南近江(みなみおうみ=現在の滋賀県南部)の戦国大名(せんごくだいみょう※1-1-1)。六角氏14代当主
※1-1-1 せんごくだいみょう=戦国時代(せんごくじだい=大名(だいみょう=ある地域を支配している者)が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ=多くの英雄が各地で勢力を振るい、互いに対立し合うこと)した動乱(どうらん=世の中がさわがしく乱れること)の時代)で、各地に領国を形成した大名
※1-2 みよしの、頼芸の愛妾(あいしょう=気に入りの妾(めかけ=婚姻(こんいん=結婚)した男性が、妻以外にも囲う女性))でのちに道三の側室(そくしつ=妻以外に囲う女性)となる。義龍の母
※2 とき よりずみ、1524~1547=美濃国の守護大名。母は朝倉貞景(あさくら さだかげ※2-1)の三女。妻は道三の娘・帰蝶
※2-1 あさくら さだかげ、1473~1512=越前(えちぜん=現在の福井県嶺北(ふくいけん れいほく)地方(岐阜県(ぎふけん)北西部含む)・敦賀市(つるがし))の戦国大名。朝倉氏第9代当主

※3 さいとう よしたつ、1527~1561=幼名・豊太丸(とよたまる)⇒元服(げんぷく=男子が成人になったことを示す儀式)後・利尚(としなお)⇒高政(たかまさ)⇒道三没後、義龍。武将(ぶしょう=武士(ぶし=さむらい)の大将)。美濃国の守護代、守護、戦国大名。道三流斎藤氏の第2代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。母は側室・深芳野
※4 さいとう まごしろう、~1555=道三の次男。母は小見の方(おみのかた※6)?
※5 さいとう きへいじ、~1555=道三の三男。母は小見の方?
※6 さいとう たつおき、1548~1573=美濃国の守護大名、戦国大名。道三流斎藤家3代
※7 きちょう、1535~=濃姫(のうひめ)。土岐頼純(とき よりずみ※2)の正室。頼純死後、織田信長(おだ のぶなが※10)の正室となる。母は小見の方。

※8 おみのかた、1513~1551、道三の正室。帰蝶(きちょう※7)の母
※9 あけち みつひで、~1582=武将、大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)? 織田信長を討った人(本能寺の変(ほんのうじのへん))

※10 おだ のぶなが、1534~1582=勝幡織田家5代当主。武将・戦国大名。のちの天下人(てんかびと=国じゅうを支配するひと)。三英傑(さんえいけつ=現在の愛知県(あいちけん=当時は尾張国(おわりのくに)と三河国(みかわのくに))出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた三人(信長・豊臣秀吉(とよとみ、※10-1)・徳川家康(とくがわ いえやす、※10-2)))の一人
※10-1 とよとみ ひでよし、1537~1598=武将・大名。天下人。初代・武家(ぶけ=武士の家筋(いえすじ=家系))関白(かんぱく=天皇を補佐する(ほさ=助け、その務めをはたさせる)官職(かんしょく=律令制(りつりょうせい=律令(りつりょう=国家の基本法である律と令。律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定)を基本法とする政治制度)における官と職。官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲を示す呼び方))、太閤(たいこう=関白の位を子に譲った人の呼名)。三英傑の一人
※10-2 とくがわ いえやす、1543~1616=戦国大名。安祥松平家(あんしょう まつだいら け)九代当主(とうしゅ=その家の現在の主人)。のちの天下人。江戸幕府(えどばくふ※10-7-2-1)の初代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=武士による政権のトップの称号)。三英傑の一人
※10-2-1 えど ばくふ=家康が江戸(えど=現在の東京都)に開いた武家政権(ぶけ せいけん=※10-2-1-1)
※10-2-1-1 ぶけ せいけん=武家(ぶけ=武士(ぶし=さむらい)の家筋(いえすじ=家系))が掌握した(しょうあくした=自分の思いどおりにした)政権(せいけん=政治(せいじ=主権者(しゅけんしゃ=国の主権(しゅさい=政策(せいさく=目標を達成するために手段)を実行し、統治機構(とうちきこう=国を統治する(とうちする=まとめおさめる)仕組み)を動かす権力)を有する者)が、領土・人民を治めること)を実行する能力)
※11 あんどう もりなが、1503~1582、武将。美濃国北方城(きたがた じょう=現在の岐阜県本巣郡北方町(もとすぐん きたがたちょう)にあった城)主(しゅ=あるじ)。西美濃三人衆の一人(他の二人は稲葉良通(いなば よしみち)、氏家直元(うじいえ なおもと))
※12 いなば よしみち、1515~1589、武将。美濃国曽根城(そね じょう=現在の岐阜県大垣市(おおがきし)にあった城)主。西美濃三人衆(安藤守就、稲葉良通、氏家直元(うじいえ なおもと))の一人
※13 うじいえ なおみち、1512~1571=武将。氏家氏12代当主。西美濃三人衆の一人(他の二人は安藤守就と稲葉良通)
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以上所説あり。

投稿者: Mercury

歴史がとってもにがてな人いませんか? 実は僕そうなんです。大河ドラマなどの時代劇を見るたびに勉強しておけばよかったといつも思うんです。 そこで、歴史について勉強することにしました。 分かりやすいよう人物や出来事別に勉強しようと思います。 いっしょに勉強したい方、ちょっと興味のある方、 ぜひ、ご一読くださいませ。 文章下手ですが、よろしくお願いいたします。

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