ここでは、1605年、秀忠(ひでただ)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府の主宰者(しゅさいしゃ)の職名)職を襲職(しゅうしょく=職務を受け継ぐこと)させてから、1617年、日光へ家康を改葬(別のお墓に遺体を移して供養(くよう)すること)するまでを勉強します。
1605年(慶長十年)4月16日、嫡男(ちゃくなん=あとつぎ)の秀忠(ひでただ)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=幕府の主宰者(しゅさいしゃ)の職名)職を襲職(しゅうしょく=職務を受け継ぐこと)させました。
1607年(慶長十二年)7月3日、駿河駿府城(するが すんぷ じょう=現在の静岡県静岡市葵区にあった城)に入りました。
1611年(慶長十六年)3月28日、秀頼(ひでより)と山城二条城(やましろ にじょう じょう=現在の京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある城)にて会見(人と人とが会うこと)しました。4月12日、前田利光・毛利秀就・島津家久・福島正則・池田輝政(まえだ としみつ=のちの利常(としつね)・もうり ひでなり・しまづ いえひさ・ふくしま まさのり・いけだ てるまさ)ら北陸(現在の新潟県、富山県、石川県、福井県の4県あるいは現在の富山県、石川県、福井県の3県)・西国(さいこく=近畿から西の地方)の国持(くにもち=一国以上を領有する大名)の諸大名に臣従(しんじゅう=君主につき従うこと)の誓約(せいやく=必ず守ると約束すること)をさせました。
1612年(慶長十七年)正月5日、伊達政宗・上杉景勝・佐竹義宣・里見忠義(だて まさむね・うえすぎ かげかつ・さたけ よしのぶ・さとみ ただよし)ら関東(かんとう=現在の茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)・奥羽(おうう=現在の東北地方)の国持の諸大名に臣従の誓約をさせました。
1614年(慶長十九年)7月、山城方広寺鐘銘事件(やましろほうこうじ しょうめいじけん=京都府京都市東山区茶屋町で起こった事件)が起こりました。11月19日~12月20日、大坂冬の陣(おおさか ふゆ の じん)が起こりました。
1615年(慶長二十年)5月6日~8日、大坂夏の陣(おおさか なつ の じん)が起こり、豊臣氏(とよとみ し)が滅(ほろ)びました。
1615年(元和元年)7月、武家諸法度(ぶけしょはっと=江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法)、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと=江戸幕府が、天皇及び公家に対する関係を確立するために定めた制定法)、寺院法度(じいんはっと=江戸幕府が仏教教団に対して定めた諸法度の総称)を制定(せいてい=おきて・規則として取り決めること)しました。
1616年(元和二年)3月17日、太政大臣(だいじょうだいじん=官職の一。左右大臣の上位)に任官(にんかん=官職に任ざれること)しました。4月17日、駿河駿府(するが すんぷ=現在の静岡県静岡市葵区)にて死去しました。翌日、駿河国久能山(するがのくに くのうざん=現在の静岡市駿河区根古屋)に埋葬(まいぼつ=死者を土の中にうずめほうむること)されました。
1617年(元和三年)3月、下野国日光(しもつけのくに にっこう=)へ改葬(別のお墓に遺体を移して供養(くよう)すること)されました。
以上所説あり。