ここでは、羽柴秀吉が天下人としての立場を示す年(1583年)から羽柴秀吉と和睦する(1586年)までを勉強します。
1583年(天正十一年)8月15日、相模(さがみ=現在の川崎市と横浜市一部以外の神奈川県)北条氏(ほうじょうし)との遠相同盟(えんそう どうめい=近江と相模の同盟)を固めるため、娘の督姫(とくひめ)が北条氏直(ほうじょう うじなお)に嫁ぎました。11月15日、羽柴秀吉(はしば ひでよし)の督促(とくそく=さいそく)に従い、相模北条氏に「関東惣無事(かんとうそうぶじ=関東の大名・国衆の紛争解決や統制)」の指示を伝えました。
1584年(天正十二年)3月6日、織田信雄(おだ のぶお)が親秀吉派(おや ひでよしは)の家臣(かしん=家来)、津川信雄・岡田重孝らを殺害しました。その後、家康は信雄に従い、羽柴秀吉(はしば ひでよし)と戦いました(小牧・長久手合戦(こまき・ながくてがっせん))。11月12日、羽柴秀吉と徳川信雄が講和(こうわ=交戦国が、互いに協定を結んで戦争をやめ、平和を回復すること)しました。直後に家康も秀吉と講和し帰国しました(小牧・長久手合戦の終結)。
1585年(天正十三年)6月、信濃国(しなののくに=現在の長野県)衆の真田昌幸(さなだ まさゆき)が離叛(りはん=従っていた者から離れてそむくこと)しました。閏年8月、第一次上田合戦(真田氏との合戦)が起こりました。10月、信濃国衆の小笠原貞慶(おがさわら さだよし)が離叛しました。11月13日、石川数正(いしかわ かずまさ)が出奔(しゅっぽん=逃げて姿をくらますこと)しました。
1586年(天正十四年)2月、羽柴秀吉と和睦(争いをやめて仲直りすること)しました。3月、北条氏政(ほうじょう うじまさ)と伊豆国三島(いずのくに みしま=現在の静岡県東部の、伊豆半島の中北端に位置)・駿河国沼津(するがのくに ぬまづ=現在の静岡県の東部、伊豆半島の付け根に位置)で二度、会見しました。5月14日、秀吉の妹の旭姫(あさひ ひめ)と婚約しました。10月27日、上洛(京都に行くこと)のうえ、羽柴秀吉に対面し、臣従(しんじゅう=君主につき従うこと)を誓いました。11月5日、正三位(しょうさんみ=位階の一。従二位の下、従三位の上)権中納言(ごんのちゅうなごん=中納言の定員に空きがない場合の職名)となりました。12月4日、本城を駿河駿府城(するが すんぷ じょう=現在の静岡県静岡市葵区にあった城)に移しました。
以上所説あり。