ここでは、龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)と有馬晴信・島津家久(ありま はるのぶ・しまづ いえひさ)の合戦である沖田畷の戦いの年(1584年)から、義弘と改名した年(1587年)までを勉強します。
1584年(天正(てんしょう)十二年)3月、島津・有馬連合軍(ありま・れんごうぐん)、沖田畷の戦い(九州の戦国大名である龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)と有馬晴信・島津家久(ありま はるのぶ・しまづ いえひさ)の合戦)で龍造寺隆信を戦死させました。7月、義弘の次女・御下(おした)が生まれました。
1585年(天正十三年)4月、義弘、肥後国(ひごのくに=現在の熊本県)守護代(しゅごだい=室町幕府の職名。守護の下。)となりました。8月、島津氏、阿蘇方(あそがた)の肥後堅志田城(ひご かたしだ じょう=現在の熊本県にあった城)を落としました。10月、関白(かんぱく)・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、薩摩国(さつまのくに=現在の鹿児島県西部)と豊後国(ぶんごのくに=現在の大分県宇佐市、中津市除く大半)の和睦(わぼく=争いをやめて仲直りすること)を勧告(かんこく=ある事をするように説きすすめること)しました。
1586年(天正十四年)8月、義弘は義珍(よしたか)と改名しました。この年、島津氏、筑後国(ちくごのくに=現在の福岡県南部)に侵入(しんにゅう=他の領域におかし入ること)し、筑紫広門・春門(つくし ひろかど・はるかど)父子と、高橋紹運(たかはし しょううん)を降(くだ)すが、立花宗茂(たちばな むねしげ)は降せませんでした。11月、義弘は肥後口(ひごくち)より、家久(いえひさ=弟)は日向口(ひゅうがくち)より豊後国へ侵入しました。12月、島津氏は戸次川の戦い(へつぎがわ の たたかい)で秀吉の九州征討軍(きゅうしゅう せいとうぐん=九州で反逆する者をせめうつ軍)を撃破(げきは=敵をうちやぶること)しました。
1587年(天正十五年)3月、秀吉の大軍(たいぐん)が豊後府内(ぶんご ふない=現在の大分県大分市)に来襲(らいしゅう=おそってくること)し、島津氏は撤退(てったい)しました。4月に高城・根白坂の戦い(たかじょう・ねじろざかのたたかい=日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍との合戦)で敗れてしまいました。5月、義久は、薩摩国川内(さつまのくにせんだい)の泰平寺(たいへいじ=現在の鹿児島県薩摩川内市大小路町にある寺)で秀吉に帰順(きじゅん=敵対するのをやめて、服従すること)しました。同月、義弘は、日向国野尻(ひゅうがのくにのじり=現在の宮崎県小林市)で豊富秀長(とよとみ ひでなが)に帰順し、薩摩国鶴田(さつまのくにつるだ=現在の鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田)で秀吉に帰順しました。6月、弟・家久が、日向国野尻の秀長の陣で急逝(きゅうせい=急死)しました。義弘は、この年の8月に義弘と改名しました。
以上諸説あり。