ここでは、1596年~1604年までに、宮本武蔵(みやもと むさし)が、たずさわったことを勉強します。
1596年(慶長(けいちょう)元年)、新当流兵法者有馬喜兵衛(しんとうりゅう ひょうほうしゃ ありま きへえ)と仕合(しあい=力の優劣(ゆうれつ=すぐれていることと、おとっていること)を競い合うこと)して勝ちました。
1599年(慶長四年)、但馬(たじま=現在の兵庫県北部)の兵法者秋山某(ひょうほうしゃ あきやまなにがし)と仕合して勝ちました。
1600年(慶長五年)、九月、豊臣方(西軍)に荷担(かたん=力ぞえをすること)して関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)に参戦(さんせん=戦争に参加すること)しました。敗れたのち、主家新免氏(しゅけ しんめんし)とともに九州(きゅうしゅう=日本列島を構成する島の一つで、その南西部に位置する)に潜行(せんこう=水中をもぐっていくこと)しました。
1601年(慶長六年)七月、伏見城(ふしみ じょう=現在の京都府京都市伏見区桃山(きょうとふ きょうとし ふしみく ももやま)にあった城)を陥し(おとし=攻め落とされること)、八月、濃州岐阜城(のうしゅう ぎふ じょう=現在の岐阜県岐阜市の金華山にあった城)を攻(せ)めました(こちらから進んで戦いをしかける)。
1604年(慶長九年)京都蓮台野(きょうと れんだいの=京都にある墓地)において吉岡清十郎(よしおか せいじゅうろう)と仕合し、洛外(たくがい=京都の市外)において吉岡伝七郎(よしおか でんしちろう)と仕合し、一乗寺下り松(いちじょうじ さがりまつ=現在の京都府京都市左京区一乗寺花ノ木町(きょうとふ きょうとし さきょうく いちじょうじ はなのきちょう)にある松の木)において清十郎の子・又七郎(またしちろう)を名目人(めいもくにん)とする吉岡一門(よしおか いちもん)と決闘(けっとう=果たし合い)を行い、ともに勝ちました。同じころ、奈良宝蔵院槍術(なら ほうぞういん そうじゅつ=柳生新陰流剣術(やぎゅうしんかげりゅうけんじゅつ)とともに奈良を発祥地とする日本を代表する武道のこと)と技を競い合いました。
以上諸説あり。